いずれ日常になる非日常

「なんでこんなことに!」
 すっかりと日が落ちて、丸い月が浮かんでいる時間、私は黒いなにかに追いかけられていた。
「ちょっと近道するだけだったのに!」
 学生の一大イベントである定期テストを終え、帰宅していただけなのだ、少し前回より出来がよく、自己採点ではそこそこの点数を出していたので機嫌良く帰っていた筈だった。こんなことになるなんて、生涯私はこの日を呪うだろう、もう生涯も終えそうだけどね!
「あぶな!」
 転がるように坂道を下る、たまに襲いかかる風きり音をギリギリで避けながら、とんだハイキングだ。
「これ夢だよね!」
 切羽詰まると現実に悪態をついてしまう癖が出ている、恐怖も相まっていつもより頭の中の自分は饒舌だ、黙ると恐怖に押し潰されてしまいそうだから、出来る限り言葉を吐き出しながら走る。
「あなたもそう思うよね!」
 おおよそ自分の五倍はあるであろう質量が木をなぎ倒して迫っているのが音で分かる、私の言葉には耳を貸してはくれないようだ、夢なのかな?と何度も思ったが肩を伝う赤い液体と熱い痛みがこれが現実だと教えてくれている、クソが!
「なんでこんなことにぃ!」
 先程と同じ言葉が零れる、私はただ、いつもとは違う道で帰っていただけなんだ、それをこんな生きるか死ぬか分からないような怖い思いをしないといけないのか、何か悪いことをしただろうか?日頃の行いも良いとは言えないが悪い事もしていない筈だ、これが天罰だと言うのなら私が何をしたかだけ教えてほしい。
『――――――』
 人の声では無い何かが後ろで叫んでいる、もうここは私の知る日常では無いのだろう、息が上がってきた、酸素が足りない、足も痛い、肩も痛い、そう思っていると少し開けた場所に出た、限界を感じ、木を背に後ろ見た、見てしまった、今日が満月だったことを思い出した。
「あー」
追いかけて来ていたのは大きな蜘蛛の体に能面のような人の顔を貼り付けた化け物だった。
「素敵なお顔ですね」
 この期に及んで出てきたのは、皮肉だった。
「ははっ」
 乾いた笑いが零れていた、認識してしまった、見てしまった、途端に恐怖が足元に絡みついてきた、恐怖は足を止めてしまう、震えてしまう、膝が大爆笑している、そうか、もう私はここで終わりなんだ、蜘蛛は大きな鎌のような前脚をあげる。
「あーあ、もっと色々やってみたかったなぁ」
 既に受け入れてしまった心は私に過去の思い出を走らせる、これが走馬灯と言うやつか、それにしても何もやってこなかったなぁ、大体人並み、挑戦することが苦手で、人と関わるのが苦手、そういう人間はごまんといる、私もそのひとりだ、溜息と共にこぼした言葉は最後の最後に出た、私の本心なのだろう。
「助けて、なんて言わないから、なんでこんなことになってしまったのかを、教えて欲しい」
「それは、君の運が悪かったからだよ」
 不意に声がした、荘厳にも軽薄にも聞こえる不思議な雰囲気な声だ、そのような声で私にどうしようもないダメ出しをしてくるのだから少しイラッとしてしまった。
「偶然、機嫌がよくて、偶然、いつもと違う道を通り、偶然、機嫌が悪い大蜘蛛の前を通ってしまった、それだけだよ」
 そんな理由で追いかけられているのか、なんという理不尽。
「世界は理不尽なものさ」
 心の声が聞こえるのか、声の主は私に語りかけてくる、私は頭が冷えてきたみたいでだんだん腹が立ってきた。
「じゃあ、私は死ぬんですか?」
 素朴な疑問、周りはまるで時間が止まったようにゆっくりと流れているように感じる。
「どうしてほしい?」
 質問を質問で返してきた。
「助けてと言ったら助けてくれるんですか?」
 だから私も同じように返す。
「さっき言ってたじゃないか、助けてとは言わないからなんでこうなったかを教えてほしいと、だから教えた」
 確かに言ったことだ。
「じゃあ私に死ねと言うんですか?」
 そう言っているのと同じ返答に苛立ちを隠せない。
「そうは言っていない、もちろん助けてあげるよ、一つ約束してくれたらね」
 拒否権の存在しない提案。
「約束?」
 内容を聞かず答えるようなことはしたくない。
「手伝って欲しいのさ、なぁに、簡単なことだよ」
「内容は?」
「それはまだ言えない、ただ、今は、はいと言っておけば、助かるよ」
 頑なに内容は言わないようだ。
「どっちにしろ、ここで死んだら何も出来ないから、助けてくれたら聞いてあげる」
「……まあそれでいいか、じゃあ助けてあげよう」
 止まっていた歯車が回り出すように、私を待っていたように、徐々に世界は動き出す。
「本当に大丈夫なの?」
 声の主は依然として姿を現さない、この確認は、私を裏切らないのか、という確認も含まれている。
「まあ見てなって、この手の輩は武力や暴力で何とかなる」
 動き出した蜘蛛は変わらず振り下ろす、それは簡単に人を両断してしまいそうな鋭さと押し潰してしまいそうな質量を持っていた。
「こんな風にな」
 人影が自分の目の前を過ぎったと思ったら、蜘蛛が後ろに弾け飛んでいた。
「幻覚じゃなかったんですね」
「お前さんは幻と話す趣味があるのか?」
 まるで最初からそこにいたように、狐の面を被った、男にも女にも子供にも老人にも見える何かが立っていた。
「似たようなものでしょう」
「違いねぇや」
 笑い声も、軽薄にも真面目にも痛快にも冷たくも激しくも感じる、物凄く気持ちの悪い。
「あなた、何者なんですか、なんで私を助けてくれるんですか?」
「質問が多いなぁ、どれか一つだけなら答えてやろう」
 ジタバタと起き上がろうとする蜘蛛を横目に考える。
「じゃあ、あなたは何者なんですか?妖怪?」
「何者でもいいだろう、敵じゃないのは確かだ」
 真面目に答える気は無さそうだ。
「はぁ」
 溜息がこぼれる、今日は疲れてしまった。
「溜息は良くないよ、幸せが逃げてしまうよ」
 こうやって問答している間に大きな蜘蛛は起き上がり突進してくる。
「じゃあ、はやく助けて下さいよ、それとも出来ないんですか?」
 もうすっかり恐怖が薄れてしまった、今は目の前の非日常を睨む。
「出来るよ、だって」
 彼は笑う、微笑むようにも、高笑いするようにも、そして嘲笑うように笑う目の前の非日常に、魅入られてしまった。
 私は今日という日を呪うだろう、いずれ日常になるであろう今日の非日常を、この時、助けてなんて言わなかったら、なんて存在しないもしもを考えてしまう、運命という言葉は好きでは無いが、この出会いは運命なのだろう。
 クソッタレな日常に唾を吐きかけるように彼は私に宣言する。

「実は僕、人間じゃないんだ」

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