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エンジンサマー/手を握っていなさい

夏が終って秋になったのに、夏のような暖かい一日が戻ってくることを小春日和という。英語ではインディアンサマーというらしい。

このインディアン・サマーが、文明の滅びた遥か未来では訛って「エンジン・サマー」と呼ばれている。機械の夏=エンジン・サマー。そんなタイトルの小説、そんな未来を描いた物語を僕は大好きになった。

本を読む人ならわかるかもしれないが、生涯において、おそらく数冊、自分自身の分身のように親しく感じる物語に出会う。

何度でも読み直しても、その度に新しい何かを発見できる永遠の未開地のような物語。

何度でも慣れ親しんだ祖母の家のように帰っていける物語。

物語の主人公にも、物語の書き手にもなりたいと思わせるようなストーリーと言葉は滅多にない。この物語は自分のために書かれた。自分と出会うべく生まれたものだ、と感じさせる物語が稀にある。

もちろんそういったものは錯覚に違いないのだろうけど、幸福な錯覚であるのは確かで、誰にも文句のつけようのない奇跡的な体験になる。

読む人もいるかもしれないから、詳細ははぶく。これは文明が滅びた後の物語だ。失われたものをめぐる物語でもある。失われたのものは、文明だけでなく、主人公の初恋だったり、ささやかな温もりだったり、さまざまだ。

いろんなものが失われてしまい、いままさに失われようとしている。ここには、がむしゃらな青春の手ごたえのなさが確かにある。老年の味気なさも、おぼつかない足取りで立ち上がったばかりの幼子の初々しさもある。

僕らは失い続けている。どんなときも絶え間なく。

だからこれは失われたものと折り合いをつけることの物語でもある。それは、失われたものを取り戻すことよりも、代わりとなるものを手に入れることよりも時として大切だ。

ことによると、失わないことよりも。

さらに、自分自身が誰かにとっての「失われたもの」になることも、避けられない可能性として感じさせてくれる。こう書くと暗い物語に見えるが、そうじゃない。切なくはあるが決して悲愴な結末にはなっていない。

結末はむしろ温かい。大切な人に優しくありなさい、できれば手を握っているんだ、と、ものすごくありふれた単純なことを、主人公は天使に告げる。


リロード下さった弾丸は明日へ向かって撃ちます。ぱすぱすっ