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SMEECH‼

 枯木枕「となりあう呼吸」シェアードワールド企画への応募作品です。
 ここに載せるにあたり若干修正を加えました。

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 煙突が吠える。
 天仰ぐ何万もの歯のない口。煤雲垂れこめた白い昼下がりには、ささやかな不幸が色濃さを増す。薬指を燃やしても見通しはよくならない。老人たちは独楽になった夢から戻らないし、少女たちの苔むした頬は遺影の中の祖母と見分けがつかない。手元の狂った刃が誰かの喉笛へ殺到するのはこんな曖昧な午後にありがちなことで、ほら、ぽたぽたと赤い尾を引いた酔漢が曲がり角まであと数歩のところで冷たくなっていくのが、たまさか裂けた薄明の底の綿埃のように高みから見下ろせる――いいや、そんな場合じゃない!  
 混風まぜが来る、と乙天が防塵マスク越しに警告を発する。
「証空。気合いで揚力をキープしな」 
 突風を孕んで媒雲に舞う“文字起こし”たちの凧もまたコントロールを失いかけていた。これは不幸じゃない。いつか来る予定調和の曲がり角。
「おまえこそ、おたついてんじゃねえ」
 と返すものの、制御を失うのは一瞬だ。体の三倍もある凧の骨が軋り上げる音は小動物の断末魔じみていて耳を塞ぎたくなる。諦念と絶望は鋭さを失って久しい。変成オーディトリウムを含んだ乱気流は安くて軽い命を地表へ叩き落とそうとする。凧に乗って舞うためにはスナック菓子のように軽くあるべきだった。骨密度が低いだけでなく脂肪や筋肉さえもスカスカで多孔性。そんな隙間だらけの子供らが空で磔になって舞うさまは、濡れた猿を配電盤に放り込むよりも危なっかしい。
 排出される煙は、工業知性群の説き語りであり対話だった。濃密なスモッグは漫画のフキダシに似て黙々と騒々しかった。大気を汚染しながら交わされるとめどないおしゃべり――つまり煙話スミーチを文字に記すことから彼らは“文字起こし”と呼ばれる。工場どもの戯言を下界へ持ち帰り、都市計画や行政プランへ反映させるため文書を残す。それが“文字起こし”たちに課せられた気鬱な仕事だった。
 煤雲を引き連れて三連の凧は西へ流れた。
 空を舞うのは爽快だろうと無責任な連中は言うが、媒雲に飛び込むのは、汚水を這うより不快なことだった。煙突が吐き出す粒子は、限りなく微細で、呼吸器だけでなく、毛穴からさえも入り込む。
「さらに濃度が上がれば劇状化テアトライズするぞ」若天の凧は小さな穴が空いて制御不能寸前だったが、証空の兎唇から取り出された補修ガムによって手早く処置される。混風が来れば変成物質の流動が読みづらくなる。それが閾値を超えた瞬間、認知空間が変容するのだ。
 劇状化とは、工場たちの煙に巻かれて仮想の劇空間に引き込まれることを指す。煙話を聴取するためには、この領域に触れる必要があるが、行き過ぎれば飲み込まれて戻って来られなくなる。煙話を“文字起こし”は芝居の一幕として言語化された脚本のように記憶する。工業知性群たちが人間の身体という物質性をあえて抽象言語として扱う倒錯については謎が多い。三人一組で飛ぶのは、互いを命綱にして煙劇空間の袖から仲間を引き戻すためだが、いつだってそれは危険と隣り合わせだ。
「高度を稼げ、上層に具合のいいスリットがある。そこなら離脱も簡単だ」
「濃度が急上昇。どうして?」計器を覗き込みながら乙天が叫んだ。
「若天のやつスリットに隣接した煙脈瘤を破ったんだ。奴を責めるな。工場どものやり口は巧妙になってきてる」
 地上と彼らを結ぶワイヤーがピンと張った。ここが証空たちの手が届く最高高度なのだ。
「このままじゃ三人とも劇状化に巻き込まれる。若天! どこにいる?」
 煤煙がだしぬけに粘っこく感じられる。この抵抗感を突き抜ければ、そこは輝く夢の回廊だ。光のひとつひとつが粒立ち散乱する眩い連結路。現実の地表を埋め尽くす工場地帯のくすんだ色合いはどこにもない。五感が美しい書き割りとして再配置される。工業知性群は舞台とそこにおいて演じられる身体というフレームで諸概念を切り分けていく。見失った弟の姿を求めて乙天は急旋回する。同じ汚水溜めに産み落とされた三人だった。
「ここだ乙!」若天の声は聞こえるが視認できない。
 煤雲の中に雷光のように火花が散った。乙天と若天の荷電されたワイヤーが絡まり合ったに違いなかった。よりによってこんな時に。証空は歯ぎしりしながら煙の回廊に飛び込む。劇空間において流れる時間は現実と異なる。たった数秒のうちに長い一幕が上演されることもあれば、裁断された台詞とト書きとに一昼夜が費やされることもある。そこへ踏み込んだ有機生命体は、板付の演者として劇空間に定位キャスティングされる。アクシデントの最中劇空間に突入するのは自殺行為に等しいが、もはや避ける方途はない。
 巨大な排水溝に吸い込まれるような乱暴な没入感――そして舞台の幕が開く。
 
 首切り役人   証空または乙天
 野犬B     乙天または若天
 墓掘り人夫   若天または証空
 乞食行者    工業知性群・識無辺処
 
〇共同墓地
 
 夕暮れ。無数の墓。跪いて祈る二つの人影。野犬Aの腐乱死体と笛の音。
 
野犬B ああ、誰かが笛を吹いてやがる。死んだ少女の大腿骨で拵えた笛を。たまらない音だ。死人の寝床に潜り込んだみたいな気分。
 
 毛皮の着ぐるみ。鼻先をクンクンさせる。四つ足でぐるぐる回る。
 役人と人夫、祈りを中断して立ち上がる。
 
首切り役人 うるせえぞ、ワンコロ。お祈りの邪魔だ。よぉ、墓掘り。本当にここが奴らの墓なのか?
 
墓掘り人夫 たぶんね。踊り子は踊るのをやめた。息をするのも。
 
首切り役人 殺したのは処刑人である俺。でも埋めたのはおまえだ。
 
墓掘り人夫 近頃じゃ自分で墓穴を掘る手間のかからない死体もある。
 
首切り役人 俺が死んだって掘るさ、おまえに埋められるくらいなら。
 
墓掘り人夫 とにかく探そう。客はたっぷり払うと言ってる。
 
 行者、でんでん太鼓を叩く。野犬たちが吠える。
 
野犬B ぞっとする音だ。骨の髄まで響いてくる。ほら、こんなに尻尾が縮こまっちまった! やつはあの笛と太鼓で悪霊を招いている。地獄の住人も。
 
首切り役人 ふん、おどかすな。んなもんはいねえよ。どけ野良犬!
 
 役人、犬のあばらを蹴りつける。墓石の間を跳ね回る犬。
 
野犬B 乱暴な奴だ。しかし、墓を暴くのにわざわざ祈りを捧げるところを見るとあんたも死者も恐れているに違いない。
 
首切り役人 ふん、恐れているだと? この俺がか? 何千人ものそっ首を落としてきた俺が? そうなのか?
 
 役人、ひとつの墓にスコップを入れる。野犬がおどけるように踊る。
 
墓掘り人夫 この駄犬が! 
 
 人夫、犬の脇腹を蹴ろうとするが、うまくかわされてしまう。
 すっぽ抜けた靴が飛んでいく。破れた靴下から踵がむき出しになる。
 人夫、恥部を見られたように赤くなる。
 
首切り役人 何を遊んでやがる。手を動かせ。墓掘りは本業だろう。
 
墓掘り人夫 埋めるために掘るのと出すために掘るのとは違う。
 
野犬B (靴を咥えて戻って来る)墓を暴くのだね。それはひどい冒涜だ!
 
 野犬A、死んだままで、ひどい冒涜だ、とリフレインする。
 
墓掘り人夫 (スコップを振り上げて)靴を返しやがれ!
 
 乞食行者の骨笛の音が高まる。舞台背景に無数の黒いシルエットが踊る。
 
野犬B ほら、悪霊どもがやってきた。
 
墓掘り人夫 ああ、なんてことだ!
 
首切り役人 見るな。黙って仕事を続けろ! (手を止めて)棺が壊れて中まで土で埋まってやがる。これは厄介だぞ。
 
野犬B 急がないとあんたらも食われちまうよ。ししし。
 
墓掘り人夫 頭が出てきた。ああ、仲良く眠っているな。死蝋に覆われてまるで生きているようだ。ほらもう少しだ。
 
首切り役人 さあ、頑張れ。ヒーヒーハッ、の呼吸だ。苦しいか。すぐに取り出してやるからな。
 
墓掘り人夫 苦しみは生者の特権だ。それじゃまるで‥‥
 
 でんでん太鼓の音。悪霊たち激しく舞う。
 
墓掘り人夫 なぁ、こいつは本当に墓荒らしなのか? 
 
首切り役人 ほら、外の空気はうまいだろう? 外じゃ何もかもが新鮮だ。うつくしい世界。(言い誤る)鬱苦しい世界。
 
 役人、土の中から対のマネキンを引っぱり出す。赤子が泣く声。
 
墓掘り人夫 そうじゃない。ここは墓場だ。そうじゃない。何も生まれない。
 
首切り役人 とても元気で健康な赤ちゃんです。
 
野犬B 憐れな盗人どもが子宮Womb墓標Tombを取り違える。でも、おまえらこそ盗品のようなものだ。薄汚い手から手へ転売されて過ごす。一生涯をFrom Womb To Tomb
 
墓掘り人夫 あれは悪霊なんじゃない。天使かもしれん。
 
首切り役人 あんな不吉な連中が! ほら、もう少しだ。お子さんたちともうすぐ会えますからお母さん。体重は二人合わせてもとても軽い。ワインのコルクみたいに。
 
 役人、やさしく墓石に話しかける。人夫、憐れみの視線を役人に注ぐ。
 
野犬B 墓体マムの衰弱がひどい。もう石みたいに冷たい。まるではじめから生きなかったみたいに。ししし。
 
墓掘り人夫 この犬をもう殺しちまおう。おまえには母も墓もない。薄汚い雑種め。
 
野犬B 殺すのなら、やっておくれ。ひと思いに。石よりも冷たくどうか。
 
首切り役人 やめろ。犬を殺すのは早朝に限る。夜は血が臭う。
 
 役人、掘り出した二体のマネキンを担ぐ。
 一方の四肢には無数のアザがある。
 
首切り役人 さっさとこいつを引き渡そう。
 
墓掘り人夫 依頼人は何をしたいんだ?
 
首切り役人 狂っているのさ。糞尿と死体を混ぜ合わせて硝石を造るんだと。
 
野犬B 火薬か踊り子はよく燃える。迷信だがね。
 
墓掘り人夫 爆弾Bomb。吹き飛ばしたいのか。ここじゃ、あらかじめみんな吹っ飛んでる。木っ端微塵の翌々週の水曜日が今日だ。
 
野犬B ああ、もう夜になる。まっくらになるよ。
 
首切り役人 やっぱり犬を殺そう。たぶん朝はもう来ないから。
 
 役人と人夫、スコップを振り上げる。
 犬の悲鳴5.391×10の-44乗秒後に途絶。
 暗転。
 
 劇空間を抜けたとき、証空たちは書き割りのような青い空に漂っていた。凧の骨が軋り上げる。分厚い煤煙の層を突き抜けて汚染されていない新鮮な空へ出たのだと思ったが、すぐにそれは間違いだとわかった。高度は変わっていない。計器類の表示は、あれから三日が経っていることを教えてくれた。凧の制御システムが最低限の揚力を確保してくれたものの、食事も水も摂っていない証空と若天はひどく衰弱していた。
 乙天の姿はない。劇空間へ突入する寸前に、若天を守るため、絡まったワイヤーを自力で切り離したのだろう。地上と“文字起こし”たちとを繋ぐ紐帯が切れてしまえば、凧はあてどなく彷徨うほかない。奇跡でも起きない限り助かりはしない。
 証空は涙を流さない。若天は唾を吐いた。
「見ろよ。青い。なんて青いんだ!」
 三人だった“文字起こし”は今や二人。ここ数百年で空の青を見たのは二人だけだろう。
「空気が澄んでいるのは高濃度の煤煙層が地上に沈下したからだ。僕たちが劇空間に囚われている数日間で工業知性群は、吐き出す煙の比重を変えたんだ」
「ああ、みんな劇状化しちまった。地上に戻れない。帰る場所がない」
 いまや地上の人間たちは、壮大なドラマの内側に取り込まれてしまっているだろう。そこでは何十万もの人々を巻き込んだ超巨大群像劇ギガロゴーディアが上演されているはずだ。へその緒のような凧のワイヤーは地上に吹き溜まる煙の中へと没している。巻き取り機のある尖塔もまたすっぽりと煙に取り巻かれて頂部だけしか見えない。ホスゲン・ガスより重い煙海の底に都市は沈んだ。
「どうする?」と若天が問うた。
 象徴と寓意が張り巡らされた芝居を通して人と工業知性群はコミュニケーションを取っていたのだったが、とうとうダイレクトに彼らは迫ってきたのだ。あるいは奴らに体性言語を符号化したという踊り子たちの密やかな息遣いが蘇ろうとしているのか。さっきのドラマの意味を読み解く余裕はないし、この有様が対話なのか侵略なのか峻別する手立てさえなかったが、やるべきことはひとつ。たったひとつしか残されていない。
「奴らの言語‥‥奴らの三文芝居になって内側から茶番を停止させる。言語が話者を出し抜けるかどうか知らねえけどな」証空は言った。
 二人一役BOX and COXで演じるのは、どんな役だろうか。
 うまくいけば閃光のような一瞬において地上を解放できるだろう。劇空間において何億というシーンを継いでいった果ての刹那。地表へ激突する束の間の無限の中で。
「行こう。吹き飛ばすぞ」先に煙海へ飛び込んだのは若天だった。
 証空は、二度と見ることのない深い青を網膜に焼きつけると、同じく身を投げた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

リロード下さった弾丸は明日へ向かって撃ちます。ぱすぱすっ