命のチカラ
蒼天航路、言わずと知れたアナザー三国志。乱世の姦雄曹操を主人公とした破格の物語だ。
すべてのキャラ、史実の事件に作者の味付けがしてあって、好き嫌いは別れるものの、他に類を見ないユニークな作品になっている。
読んでいる人も多いだろうから、深くは語らない。
ぼくはたったひとつのエピソードについてだけ書きたい。
それは三顧の礼でもなく、赤壁の戦いでもなく、桃園の誓いでもない。曹操が、石徳林という男をスカウトしに行った時のエピソードだ。
石徳林とは、素寒貧という言葉の由来になった裸一貫無一文のおっさんである。隠者と言えば聞こえはいいが、作中では、ただの汚いホームレスとして描かれている。
中国風の神仙でもなければ、孔明のような野に埋れた賢人というわけでもない。ホントにただの汚いおっさん。頭にはハエが旋回してる(笑)
対して曹操は、乱世に覇をとなえ、戦場に興じ、酒色に耽るだけでなく、琴棋書画、詩歌歌賦、およそ人の営みの生み出した文化風物の粋すべて平らげんばかりの怪物。
まさに人の性の権化としてある。
その曹操が、シンプルライフのホームレス石徳林と反りが合うわけもない。
石徳林から見たってそうだ。
自分は、人の先へ立たない生き方をする。質素で何も持たず、何にも執着せずに、つつましくでも気ままに生きていきたいんだ、放っておいてくれ、と曹操を突っぱねる。
才覚あるものを野に置いておくことを許さず、どんな手を使ってでもプレーンにせずにはいられない曹操も、石徳林には、まるでこっちからお断りだと言わんばかりに言い放つ。
「おれとはまるで違う」
本当にそうだ。まるで二人はまるで対極。
どうしようもない。二人の対話は完全な物別れに終る。
時間が惜しいとばかりに立ち去ろうとする曹操に、裸の大将さながらの隠者が最後に呟く一言が僕の琴線に触れた。
「たしかにおれとおまえは全然違う」と石徳林
「‥‥しかし、自分の命の力を微塵も疑っていない、その点では同じだ」
確か、曹操は何も答えなかったと思う。いや、友に似ていると思った、と言ったのだったか。よく覚えていないが、大切なのは、二人が微塵も疑っていないという命の力のことだ。
正反対の二人が、その一点で直結する命の力とはなんだろう?
頑強な身体のことか。それとも死地から必ず生還する運のことか。
多分違う。二人ともおそらく普通の人間のように病んで死んでいくだろう。じゃあここで持ち出された命の力とは?
それはきっといついかなる時にぼくらのかたわらにあって、連綿と流れる何かだ。中華思想の底流にはいつもこれがある。弱弱しく陰々としたもの。だからこそ翻っては赫々と眩く輝くもの。
老荘の本にも易経にも淮南子にも、それが語られている。
病床の宵にあっても、栄光の朝にあっても、衰亡の夕べにあってさえ絶え間なく流れ続ける存在そのものの力。
それを石徳林は、信じる、と言う。あっけらかんと信じる、とは言えない僕だけれど、僕の活かす社会や環境のフレームのずっと外にも流れ続けているそんなチカラをやはり疑っていない。
リロード下さった弾丸は明日へ向かって撃ちます。ぱすぱすっ