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往復書簡:イロコさんへ。3通目、察するのも嫌いじゃない

往復書簡3通目です。今回はこちらの手紙へのお返事です。


イロコさんこんにちは。お手紙ありがとうございます。そして明けましておめでとうございます。

《それまでは心地よいと思っていたはずの関係性が、ほんの少しの違和感からボロボロと崩れ落ちていく》ことは、僕にもよくあります。この人ならわかってもらえると思って、そうでもなかったこと。そうでもなくなったこと。この繊細な関係のバランスの前では、時間は人を変えすぎてしまうこと。かといってこの逆はなく、つまりこの心地いい関係の方には、人が変わってくれたことはないこと。

たくさんあります。ほんと、悲しくなるくらいに。

* * *

身も蓋もないですが、たまに他人のことを、一方的に信じ過ぎてしまうんですよ。この人は全部わかってくれるなって人に、たまに出会ってしまう。

たとえば大学入って何年目かのときなんか、当時、人間関係でまずったなーって事があって、それを色々とSNSにグチグチ書いていたら1つか2つ年上の人に興味を持ってもらえたみたいで、それで会いましょうとなったことがありました。どうやら境遇が似ていたみたいなんですよ。境遇が似るというのは、行動と、それから得られる考え方や感覚が似るということで、それでなんか「でもそれって〇〇じゃん」「そうそう!そうなの!」と意気投合みたいなことしちゃって。互いの環境が違っても、1言って10伝わるみたいな。

当時の僕たちは、ふたりともロマンチシズム?を拗らせていた(そんなんだから社会性が上手くいかないんだけど)というか、人との関わりや行動に意味を見出そうとし、言葉にして、愛だとか意思だとか、救われるとか救われないとかそういうことに躍起になっていた気がします。

自分なりの言葉を見つけたい人種だからか、あまり"その他大勢"に迎合できない・されないところがあり、それで困ったり寂しくなったりということはないんだけども、でも異国(実際はただのトーキョー)で同じ母国語の人間がばったり出会ったような安心感みたいなものはやっぱりあって。最初のうちはそうやって、ずっとこの時間が続けば、と思うほどには楽しかったんですけどね。

途中は端折りますけど、そう長くは続かなかったんですよ。なんでも話せる人、わかってくれる人って僕の方はそう思ってたら、なんか違ったみたいで。時間が経ち、二人の環境と境遇が変化し、落ち着いたり不安定になったりするなかで「でもそれって〇〇じゃん」への「そうそう!そうなの!」が、「そうかな?」「どういうこと?」に変わりました。段々と返信を送り合う長さも、会って話す頻度も減り、やがて返事は「よくわからない」になり、……いや嘘、実際には何も返ってこなくなり、フェードアウト。

何がいけなかったかなあ、どこで間違えたかなーってずーっと考えてるんですけども。

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さて。「投げたボールを受け取って、同じくらいの力で投げ返す」とはどういうことか? それは、キャッチボールでいうところの、相手との距離や投げられたボールの質感・重さを確かめられて、投げ返した後には相手の受け取り方から試行錯誤ができる、ということなのかなと思います。

つまり、相手の言葉や態度を、頭と五感で感じられるということ。結局さっきの話も、僕がそれをやめてしまったから関係が破綻したんです。相手がどんなボールでも受け取ってくれると勘違いして、勝手に期待して、そうでなかったときに勝手に失望した。ふたりの雰囲気と安心感に甘えた。

そう、安心感。《なかなかに繊細なバランスの上に成り立って》いるこの関係の中で、何が、どうしてこうも人を、関係を、距離感を変えてしまうのかというと、それは僕らが「尊いもの」と信じている安心感なのではないでしょうか。安心、しすぎてしまうのではないでしょうか。

安心しすぎてしまうから、何を言っても受け止められると思い込むのです。相手の言うことも、自分の言うことも中身をよく確かめない。それは「ふたり」の関係だったものが「ひとりとひとり」になりかねない罠ではないか。安心は悪いことではないはずで、そして初めの頃は、一方的で身勝手な押し付けがましい期待をしていたわけでもないはずでした。ただ運良く、そして運悪く心の壁が一度取っ払ってしまわれることがたまに起こる。その結果「わかってくれるかも」が「わかるはず」になり、だんだん目の前の相手が薄くなっていく。

やっぱり、安心してはいけないのでしょうかね。安心することは、慢心することと紙一重なのでしょうか。

* * *

上述した数年前のころから変わらなければと思ったことはないけれど、しかし人に伝わらなくなることや、相手が言ったのを取りこぼすことを恐れるようにはなりました。

だから、「今なら僕は」と書くのが正しいでしょうか。他人とはミステリーであり、そして推理とは愛だと、思っている節があります。単に人間は謎を多く含んだ不可解な存在という意味でもそうだけど、どちらかというと、ミステリー小説の多くのように、解けるように作ってあるという意味で。目の前の人は、僕に解ける・伝わると信じて喋ってくれている。と、僕もそう信じることが、人と関係することの前提ではないかと思うのです。

いつも、きっとどこかにヒントはあった、という気がする。言葉にするほどあからさまでない、わずかな声色と表情からの判断だけれども、きっとこういう意味で言っている気がする、とか。

ワケのわからないことをこちらの理解も確認せず喋ってしまう人が結構好きです。独特の言語を持っている人。好きというより、興味を惹かれる。loveでもlikeでもなく、attractive. 一見ワケのわからない、彼らの言語の一つ一つを確認し、定義づけ、そして翻訳し、「つまりはこういうこと?」と突きつけて、彼らの顔色が明るく変わったのをみて、これに代わる楽しみはないとさえ思えます。

もちろん毎回そうは上手くいかないし、何度も外すし、わからないことの連続ではある。現実は、ミステリーよりも明らかに難解で複雑です。探偵役もいない。だから誰かが「謎は解けました」と宣言して、それが「今まで提示されたヒントから解が導けますよ」という保証を示唆してくれることもない。

だけれども、ミステリーだと思って推理してみる。解けると思って考えてみる。すると、たまに解ける。たまに解いてもらえる。彼らとの関係は、「わかりやすく伝えなさい」「言わなきゃ伝わらない」と、健全な関係であれと叫ばれる世の中での、身を崩す嗜好品のようなものに思えます。今振り返ると、大学の頃のあの出会いは、僕を中毒に至らせる強烈な一本だったのかもしれない。

* * *

インターネットを漁れば、「言わなきゃわからない」だの「"察して"は悪」だの言われて、それってつまり「お前に謎は解けない」と言われているようなもんではないかと思ったりもしますけれども。

察しようとするの、そんなに嫌いじゃない。
手がかりも提示せず、常に詮索待ちで察してもらうためのコストをこちらが全負担するのが当たり前と思われてるのが癪なだけで、察しようとすること自体は巷で言われているほど嫌いじゃない。

「言わなきゃわからない」が、「言えば伝わる」の安心になり、「伝えるコストは話すほうの全負担」の慢心にならなければいいなあと思います。ミステリーやってるほうが、よっぽど楽で楽しいとは思うのですよね。


2022/1/10  真城ひろのより

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