'見える'と'見えない'の苦しみ
26歳の時、脊髄の病気が原因で車椅子になってしまった。
見ただけで'障害者'と分かる身体になってしまった。
正直、嫌だった。
道を走ってても見立つし、電車の中ではスペース取るし。
視線が痛い時や実際に「邪魔」と言われたこともある。
障害を隠せたら。
何度そう思っただろう。
見て分からない障害だったら、そもそも障害なんて持たなかったら、どんなに楽だったうって思った。
けど、あることに気付かされた。
見て分かる障害は助けを求めやすい、ということに。
例えば段差に困っていて、通行人にお願いすると助けて貰えたり、何かしようとしていると「お手伝いしましょうか?」と声を掛けて貰えたりする。
見てすぐ理解して貰える。
だけど、見に見えない障害は助けを求めにくい。
ヘルパーマークというのが広まっているけど、声をあげても理解して貰うのは難しい。
'甘え'などに片付けられてしまうことがある。
見ても理解して貰えない。
見えない障害を理解するのは難しい。
私も全部の障害を知っていて理解してはいない。
分からない障害も沢山ある。
だけど、分かろうとすることは出来る。
目に見えない障害を理解して、向き合うことが出来る。
全てを'障害'で片付けていいのか、という課題はあるかも知れない。
でも、'見える障害'の苦しみ、'見えない障害'の苦しみに目を背けるのは違うかも知れない。
答えのない問いかも知れませんが。
私は'見える障害'を抱えながら、'見えない障害'の方々の苦しみが軽くなることを祈っています。
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