今と昔では反抗の仕方が違う
世の中は、個人の力で変えられる部分がどんどん少なくなってきているように思います。1970年代に学生運動が起きていた頃は、まだまだ頭脳と体力を含めた力で何かを変えられるイメージを若者が持てた時代でした。
やがて、1980年代後半には若者はやり場のない反抗の気持ちをバイクやまどガラスにぶつけるようになります。まだまだフィジカルなものではありました。いわば交感神経をたぎらせて闘争をしていたのです。
しかしいまや世の中は、見えない大きな力で規定されていて、若者個人の力ではどうすることもできないように思えるのだと思います。大洋感情とお金をもった一部の幸運な若者を除いては。
そのとき動物としてのヒトは、交感神経をたぎらせて闘争するのではなく、もはや死んだふりをしてクマやライオンが通り過ぎるのを待つことで生存確率をあげようと考えるのかもしれません。
仮にあなたが50代の部長で20代の若者を指導する場面を想像してみてください。昔の若者は違う意見をもったとしたら素直に反発してきたかもしれませんが、今の若者はそんな生き方はしないのです。
「そうですね。わかりました。ありがとうございます。以後、そうしたいと思います」といってまずはクマが通り過ぎるのを待つのではないでしょうか。それはadoの歌詞にもよくあらわれています。
うっせいわ。というのは心の叫びであって、歌で表現するべきものです。学生運動をするわけでもなく、窓ガラスを割るわけでもなく、その場をやりすごしながら生き延び、安全な場所で自分を確かめるのです。
良い悪いではありません。ただ人々の努力によって、世の中が変わっていって、そこに生きる人の考え方も変わってきているということです。今後、AIがどのように変えていくのか。
シンギュラリティとかXデーとかそんなの全く関係なく、人々はより生活を便利にしたり課題を解決する努力を続けていく、その反作用として徐々に進行している環境変化があるということです。
80年代後半から90年代前半に青春期を過ごした私にとって学生運動が理解不能なものだったように、今の人には尾崎豊の歌詞なんて意味不明なのだと思います。なんで、ガラス割ってんの?受ける~wwって感じでしょうか。
社会は色々な世代の人が混在しています。わかりあえないながらも、ある一定レベルの安心と喜びをもって日常を贈ることができるように、相手の立場に立って言動を行っていきたいですね。
真実は、いつも一つ。
かもしれないけど、感じ方も表現の仕方も人ぞれぞれです。
でもだからこそ、たいていのことは許される世の中にもなり得るんですね!
ではでは~。
来週の日曜日まで、お元気で。
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