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“武蔵兵法”の読み方 第二回 「武蔵兵法の変化」

この記事は無料です。

武術愛好家はもちろん、大凡日本人、いや世界的にも有名な剣豪といえば“宮本武蔵”だろう。

16歳で初めての決闘を始め、60予の戦いにすべて勝利し、二刀流の遣い手であるとともに、『五輪書』と題する兵法録を書き遺した希有の剣豪として名高い。その姿は吉川英治氏の小説『宮本武蔵』をはじめ様々なメディアで描かれ、今日では井上雄彦氏の描く人気コミック『バカボンド』へと続いている。しかし、改めて武蔵が求め、修めた武術がなんであったのかについては、意外なほどその真像は知られていない。そこで本連載では、自ら二天一流をはじめ、様々な武術を学ぶ高無宝良氏に、武蔵の兵法について記して頂いた。

“武蔵兵法”の読み方

第二回 「武蔵兵法の変化」

文●高無宝良


激しい武蔵と静かな武蔵

さて、「武蔵兵法の読み方」第二回目です。

前回の文中で、宮本武蔵という剣豪は今なお日本人に広くイメージを持たれている偶像だとお話しました。

こちらの読者の方も宮本武蔵を知っている人が殆どだと思いますが、ではその宮本武蔵のみなさんのイメージはどのようなものでしょうか?

わたしは海外で剣術を指導することがあるのですが、以前訪れたある国で、若い修業者の男性から一つの質問をされました。

その前にわたしの二天一流の演武のようなものを少しだけご披露していたので、その動きが意に反して静かなものであったことに奇異を覚えたようです。

ちなみにその方は私たちのものとは別系統の二天一流を学んでいる実践者でもありましたが、そちらの教えはわたしの演じたものとはだいぶ違う風格なのだそうです。

彼は言いました。

「なぜ、あなたの二天一流はあんなに静かなんだ??」

わたしは答えます。

「なぜって、そのように伝わっているからだよ。二天一流が静かだとおかしいですか?」

「う〜ん、正直ぼくらのやっている二天一流とは全然違うし…ムサシはもっとこう、攻撃的でバイオレンスな武芸者じゃないの?」

そこでわたしは聞きました。

「攻撃的でバイオレンス、その武蔵像はどこで聞いたの?何を根拠にそう思う?」

すると彼はしばらく呻吟して、

「う〜ん、まあ…漫画とかドラマの武蔵からかな?」

といって少し恥ずかしくなったように笑いました。

そうなのです。これは別に珍しいことではありません。

彼だけに限らず、日本人でもほとんどの人が創作物によって作られたイメージの影響下にあり、時として根拠の乏しい武蔵像を抱くにとどまっていると思います。

むろん昔の人の事ですから正確な人間性などは知る由もありませんし、真実の武蔵がかの外国人修業者のいうように攻撃的でバイオレンスな人格であっても別に構わないわけです。

ただ、創作物のイメージに由来する根拠不明の武蔵像を抱いたままでいる事は、私たち実践者としては不甲斐ないことです。


晩年になって武蔵の剣は変わった?

前回で挙げたように、宮本武蔵の二天一流というのは、開祖本人が記した具体的な教科書を有する非常に珍しい流派なのですから、それら書物と実伝(実際に伝わってきた流派の教え)とを照応することによって、武蔵とその兵法の実態へと迫っていくべきでしょう。

その際、武蔵の兵法論と実伝流派としてその筆頭に挙げられるものは、もちろん『五輪書』と『二天一流』であることは論を俟ちません。

この記事でもそれらの論考を中心としていくことになります。

ただし、この二者が武蔵兵法の全てであるかと考えるのもいささか早計です。

五輪書は武蔵晩年の肥後細川藩滞在中に書かれたものであり、そこで表明される二天一流(または二刀一流との表記もあり)という流派もまた、武蔵晩年のもの。

それとは別に、武蔵の若年から中年期までの兵法は「円明流(えんめいりゅう)」という名前で知られていて、その時期に円明流として教えを受けた徒弟も複数いるのです。有名な弟子としては青木鉄人、竹村常右衛門といった人がいます。

円明流は完全な形で体系を保った流派としては残念ながら失伝してしまったと思われ、知る限り正確な実伝がありませんが、『円明流剣法書』という書物からその内容は窺い知ることができます。

その内容を見ると、どうも晩年の二天一流とはまた違った雰囲気があった剣術のようです。

例えば、五輪書の中でも身体技法として最も直接的な記述のある水の巻から、姿勢についての要訣を記した「兵法の身なりの事」を抜粋してみましょう。

ちなみに当記事で引用するのは岩波書店発行、渡辺一郎先生校注の版とします。五輪書には原本が存在しなく、写本ごとに少々異同があるために研究者によってそれぞれの主張があるのですが、ここで文意の大略を汲み取るのに大差は生じないと思います。

一 兵法の身なりの事
身のかゝり、顔はうつむかず、あをのかず、かたむかず、ひずまず、目をみださず、ひたいにしわをよせず、まゆあいにしわをよせて、目の玉の動かざるやうにして、またゝきをせぬようにおもひて、目をすこしすくめるやうにして、うらやかに見ゆるかを、鼻すじ直にして、少しおとがいを出す心なり。くびはうしろのすじを直に、うなじに力をいれて、肩より惣身はひとしく覚へ、両の肩をさげ、背すじをろくに(平らに)、尻を出さず、膝より足先まで力を入れて、腰のかゞまざるように腹をはり、くさびをしむるといひて、脇差のさやに腹をもたせて、帯のくつろがざるやうに、くさびをしむるといふおしへあり。惣而(そうじて)兵法の身におゐて、常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とする事肝要也。能々吟味すべし。

※()内は筆者注

一方、『日本武道全集』(人物往来社発行、東京教育大学体育史研究室・日本古武道振興会共編)に収められている円明流剣法書の「身の懸(かかり)の事」から姿勢に関する記述を抜粋すると、

五、身の懸の事
(前略)顔は少しうつぶきたるやうにして、いくびになきやうに、肩を両へひらきて、むねをいださず腹をいだし、しりをいださず腰をすへて、ひざを少し折り、つまさきを軽、くびすをつよくふみ、八文字にして懸る也。何の太刀も身の懸りはおなじ。又打つ時の身のかかり、顔は同じ。いくびに、むねを出し、しりを出し、ひざをのばして、くびすをかろく、つまさきをつよくふみて、左足を高く上げて打ち候也。身に少しもひずみなくし、ゆるゆると有るべきかり。口伝在之。

とあります。

一見してわかるのが、姿勢の要求に関して五輪書ではとくに打つ時の姿勢とそれ以外の姿勢、といったふうに分けていないのに対して、円明流剣法書では打つ時の姿勢が明記されていることです。

逆に打つ時以外の姿勢については、そこまで大きな違いはありません。

五輪書の中では他の章でもとくに打つ時に限った姿勢のあり方を説く文章は出てきませんので、二天一流の方では円明流のように大きく姿勢を変えることはしないのだろう、と解釈できます。

このように、円明流剣法書の方では、姿勢の屈伸や足の高下など、激しく大きな動きを多用するのが特徴です。二天一流と比較して、より動物的で身体技巧的な色合いが強いと言えるのです。

このことは、やはり武蔵が武芸者としての経験を積んでいったこと、そして加齢による境涯の変化の両側面が起因しているでしょう。

後に詳述したいのですが、晩年の二天一流では明らかに能楽の影響を受けたと思しき教えも頻出してきます。それに比べて円明流は本能的な剣術といった印象です。

宮本武蔵と聞いた時、私たちはついある固定された剣豪武蔵のイメージを抱きがちですが、武蔵にも六十有余年の一生涯があり、その過程で大きな技術的変遷をたどった足跡があることを見落とすべきではないと思います。

そのような端的直截な剣術家宮本武蔵の思想的・技法的変遷を追ってみることが、講談や小説によって恣に想像されてきたキャラクター武蔵ではなく現実の武蔵を知る上での、私たち武術修業者の正しいアプローチではないでしょうか。

(第二回 了)

–Profile–

著者●高無宝良(Takara Takanashi)

幼少期より各種格闘技、武術を学ぶ。

平成11年 数年間二天一流稲村清師範に師事。

平成21年 関口流抜刀術山田利康師範より関東支部設立を拝命したことを機に、同支部を兼ねた抜刀術及び剣術の修練のため古武道学舎清風会を発足する。

平成22年 小用茂夫師範のもと刀禅を学習。

平成23年 新陰流兵法山本篤師範より同流指導の許しを得る。

web site 「古武道学舎 清風会

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