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書の身体 書は身体 第二回 「よい字とはなにか?」 文/小熊廣美

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止め、はね、はらい。そのひとつひとつに書き手の身体と心が見える書の世界。しかし、いつしか書は、お習字にすり替わり、美文字を競う「手書きのワープロ」と化してしまった。下手だっていいじゃないか!書家・小熊廣美氏が語る「自分だけの字」を獲得するための、身体から入る書道入門。



「お習字、好きじゃなかった」「お習字、やってこなかった」
「書はもっと違うものだろう」
と気になる方のための、「今から」でいい、身体で考える大人の書道入門!


書の身体、書は身体

第二回「よい字とはなにか?」

文●小熊廣美


美文字は上手い字、きれいな字

 私は別に美文字について悪いとは思っていません。

 文字をきれいに書こうという美意識には、日々の暮らしの中で豊かさを感じさせてくれる、まさに文化遺産かもしれません。
 西洋には、カリグラフィといってアルファベットを様々にデザインしていく伝統があったり、アラビア文字系統にも同じようなことがいえ、現在はそれぞれがもっと表現意識が高いものになって進んでいるようです。

 そのなかでも紀元前14世紀から、一つの文字体系が発達しながら現在まで続く漢字、そしてそこから日本のかなに発展し、書論などが交わされ続け、長い間、君子の必須教養となり、つい最近までそこここで「いい字だね……」なんていう品評が巷から聞こえてきた書という歴史を考えると、漢字文化圏の人々の文字に対する美意識は抜きんでているようです。

 さて、そういう中で、「お習字」、「書写」や「美文字」は、“判り易く”からはじまり、美しさの追求の度合いでそのレベルも変わりますが、文字をきれいに書こうとする態度のことをいっています。一般的にいわれる「上手い書」もここに入るでしょう。

 それらと、「書」や「書道」は何が違うのか?

というと、書や書道では“美しい”の基準がもっと広く設定されると考えてもらうと判りやすいかもしれません。

 たとえば、“激しい”“乱れながら”“猥雑”というような言葉が美の範疇に入るのは、お習字や美文字ではなかなかないでしょう。

 プロではありますが、「人間だもの」の相田みつをさんの書も、美文字ではないでしょう。
 でも、あの言葉を支える歪んだ筆文字があるのです。亡くなってからも評価の高い前衛書家の井上有一さんの「貧」という連作、「東京大空襲」などの作品を美文字で書いたとしたら何の価値があったでしょうか。上手い下手を超えて、赤裸々に訴える強さが美しいのだと思うのです。書は、そこここにそういう美があるのです。森羅万象、人間の営みとともにあるのです。

 ですから、ここの読者のみなさんに期待するのは、今からでいい、今だから書ける、といった自分自身を肯定し、前向きに生きるための書へのアプローチです。

 お習字、美文字というものは判りやすい。でも書は、その美の範疇がさらに広いということは判ってもらえたとして、「じゃあ、結局、何がいいの? その基準は?」と問われると、一概に言えないのもまた事実です。

 スポーツなどと違って、芸術の類は勝敗や優劣がはっきり分かりやすいわけではありませんが、書もまた眼ができてくれば、その書がよくわかるようになってきます。専門家の出品する書展の受賞作などは、技術偏重のなか、はっきり言って事情や人情がだいぶ左右せざるを得ない時代的構造疲弊を感じることも多い昨今ですが、本来、専門家の眼から見れば、好みはあるにせよ、いい悪いは思うほか分かるのもまた事実なのです。

 総じて、書もまた感性の賜であるのですが、絵画などと違って、自然対象物がなく、文字を人間が作りだしてきた中で、時代とともに美意識を育ててきたまったくの文化遺産なのです。  
 中国の書論の中で時代の書美を追求してきた明時代の蕫其昌(とうきしょう)という人は、「晋人の書は韻(韻致、ひびき)を取る。唐人の書は法(法則、規範)を取る。宋人の書は意(心、思い)を取る」と。後にある研究者は、「元・明は態(姿態、すがた)を尚ぶ」「清は学(学識)を尚ぶ」などと言っています。

 そういう時代の流行もありながら、人間の営みの中から、いい悪いを見ていくものなので、一概に言えないものなのですが、下手でもいい字はあるのです。

下手でもいい字がある。上手くても悪い字がある

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