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失業者でもいい

バッシャンと水に飛び込む音が鳴り響くスイミングスクールで,威勢の良い声で子供たちを指導している恵美子は、長年の夢が叶ってインストラクターになった。
子供の頃から水泳が大好きで、県大会でも上位に食い込んだことがある。
スポーツウーマンで、シャキシャキして、キップの良いところが長所だと自分でも思っている。
そんな恵美子も、この春のバースディーで35歳になった。
同い年の彼氏はいるにはいるが、優柔不断を絵に描いた祐作なのだから、世の中、上手くできている。
元々、二人は、祐作が今も勤めている不動産会社で知り合った。
祐作は、朝から晩まで数字と睨めっこする経理マンだ。
「もう少し、俺に稼ぎがあればなあ」
これが祐作の口癖で、これが二人がなかなか結婚できない理由なのだ。
倒産寸前と言われる不動産会社なのだから、給料は安いのも無理はない。
「お金なんて二人で頑張れば何とかなるわよ」
と恵美子が言っても、祐作は、
「でもなあ」
と懐の電卓とニラめっこしてしまい消沈する。
そんなある朝、寝ぼけ眼の恵美子が朝刊を何げなく見ると、小さなベタ記事が目に飛び込んできた。
「ええ」
恵美子は思わず絶句した。
それもそのはず、自分もかつて在籍したことのある不動産会社が倒産したのだ。
恵美子は思わず、祐作に電話した。祐作は情けない声で、
「そうなんや」
その夜、スイミングスクールを引けた恵美子は、祐作と会った。
「どうする?」
「探すしかない」
「そうね」
「ますます、結婚できないなあ」
と言う味気ない会話を交わしながら、軽く食事をして、二人は特急電車に乗った。
オギャーオギャー、すぐ後ろの席で、赤ちゃんが泣き始めた。
必死でお母さんがあやしているが、なかなか泣きやまない。
運の悪いことに、隣の酔っぱらい爺さんが騒ぎ出した、
「黙らせろ」
「すみません・・・よしよし」
オギャーオギャー。
「うるさい」
と怒鳴って、すごい剣幕で爺さん立ち上がった、かなり酒癖が悪い。
「すみません・・・よしよし・・お願い泣きやんで」
お母さんの願いも届かないのか、赤ちゃんは、ますます、オギャーオギャーと泣き叫ぶ。
「チークショー、俺に逆らいやがって、そのガキ、俺によこせ」
と爺さん、赤ちゃんを取り上げようとしたとき、
「すみません」
と背の高い肩幅の広い青年が、赤ちゃんをお母さんからの手から自分の胸に抱き寄せた。
たぶん、デッキで電話でもしていたのだろうか。
お父さんのようだった。
赤ちゃんは、お父さんの胸に抱き寄せられると、ウソのように泣きやんだ。お母さんは、
「この子が泣いて泣いて・・」
と甘えるように言うと、お父さんは、
「オシメ濡れてる」
「あ、そうか」
と、お母さんがホッと一安心の笑顔を浮かべた。
バツの悪そうな爺さんは、
「なんじゃ、オヤジがいたのか」
と吐き捨てるように言うと、元の席に戻って不貞寝した。
そんな光景を斜め見ていた祐作が恵美子に、
「夫婦って、ええなあ」
と呟くと、恵美子は、
「え?」
と半信半疑の様なので、祐作は、
「失業者でも・・・いい」
と、一つ一つ言葉を選ぶように言うと、
「いいことないけど・・・しゃあない」
と頷いた恵美子の表情が少しずつ少しずつ笑顔になって行った。

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