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ラブレターが届いたのは40年後だった

省吾は、昨年、40年間の長い教師生活の幕を引いた。
「長いようで短い40年でした」
省吾は、感慨深げな顔で昔を振り返った。
昭和30年頃に青春時代を過ごした省吾は
途中3年間ほど休職している。
「本来ならば、一番楽しかった年頃でした。
そう、そのはずでした・・・」
 
一番の食べ盛りが戦後の食糧難の時代だったせいか
体の弱かった省吾は、時々咳き込むことがあった。
どちらかと言えば、楽観的な省吾は
「たぶん気管支炎だろう」
と、さほど気にもしていなかった。
ところが、教師になって間もなく吐血、
慌てて駆け込んだ病院の医師の診断は結核だった。
当時の省吾には、将来を誓い合った和子という
幼なじみがいたが、ひょっとして死んでしまうのでは
と思った省吾は
「俺のことなんか忘れてくれ」
と心にもないことを言って涙を流す和子さんと別れて
入院したのだった。
 
それでも、省吾は入院していた3年間、
一度の見舞いもないばかりか一通の手紙もない和子のことが
片時も忘れられなかった。だから、
やっと退院できた日には、誰に会うよりも先に和子の家を訪ねた。
しかし、和子は2年前に見合い結婚して
南米のペルーという国でご主人と暮らしているとのことだった。
「ああ・・やっぱり、俺のことなんか忘れたんだ」
省吾は、そう思って教職に復帰したのだった。
 
それから、40年近くすぎた先日だった。
省吾の孫の健太郎が、同じ高校のガールフレンドを
省吾のところに連れてきた
「こいつが、じいちゃんに会いたいっていうから」
「へえ?」
と首を傾げる省吾に、彼女は古い古い手紙を手渡した。
省吾は、その手紙を読んで、おもわず声を震わせた。
その手紙は40年前、和子さんが
入院中の省吾さんに宛てたラブレターだった。
目の前にいる女の子は、和子さんの孫だった。
その手紙は、数年前、急な病で亡くなった和子さんの遺品を
整理した時に出てきたものだった。
 
 

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