2020年 7月10日「エミュレートの話」

最近、友人Kと話をした。

K「しっかし、部屋の掃除ってのはどうしてああもめんどくさいんでしょうね」

八十平「そりゃあれですよ。他にもやる事が山ほどあるからじゃないですかね」

K「そうかもしれんね。僕の部屋で特に散らかるのがね、パソコンの裏。もう凄いの」

八十平「そりゃうちもだ。配線やら何やらね」

K「そうそう。僕なんかはもうどんな惨状になってるのか怖くて三年は見てないですよ、パソコン裏」

八十平「そりゃあんた、もう誰か住んでるよ、そこ」

ゲラゲラゲラ。
といった具合。

何のことはない話だった。
酒を飲みながらした適当な会話だ。

しかしその数日後、なんだか私はその会話が気になって仕方なくなった。
だが、何が気になるのか分からない。
強いて言えばなんだかその会話の流れに既視感があるように思えた。

どうでも良いことに思えたし、実際どうでも良いことだった。

それでもその既視感のような感覚は日増し、時間増しに募っていく。

しばらくのうち、うんうんうんうんと考えると、ふと思い当たった。

ラジオだ。

私の敬愛して止まない平山夢明先生と京極夏彦先生のラジオ。

お二人がしていた会話がちょうどあんな具合だったのだ。
京極先生がオチに「そりゃ、もう誰か住んでるよ」なんて言っておられた。

私はなんだか恥ずかしいやら、嬉しいやらで堪らなくなった。

人間という者の意識は生来あるものの他に、様々な外的な知識や口伝によりエミュレートされる事がある。
映画や本から得た知識が、時に私たちの生活や哲学にまるで「生きた経験」かのように活かされる。
伊藤計劃氏が書かれた「harmony」の御冷ミァハが殊更にそうであったように。

私にはそれこそが、学ぶということの本質にも思える。

私の詩作に於いても、度々このエミュレートされた意識が著る。
映画や敬愛する方が残された言葉や考え方に沿って日々を生きていく。
そうして生きていると、私の詩には本当に自然に、それが当たり前だという風に表れてくる。
それが心地よくもあり、時に不安にもなる。

誰かの後を追っているだけの様な気にもなるのだ。

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