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治水のよすが~美濃と伊予 清き濁流

あまき優しきふるさとの川も,時に漆黒の塊となって流域の営みに容赦なく襲いかかる。 

「善く国を治めるものは,必ずまず水を治める」 この為政者の要諦は,時代と施政地を問わない。後に松山藩主となる加藤嘉明は,文禄4年(1595年)伊予正木城に入部すると,家臣の足立重信に命じて,氾濫を重ねる伊予川の改修,付け替えに着手し,流路の固定,新田開発を実施した。

この土木技術に通じた足立は美濃の出身。功績により「重信川」と改称され,現在もその名を留めている。
この事績について,司馬遼太郎は次の通り記している。

豊臣時代までは,伊予第一の川ということで,伊予川とよばれていた。重信というのは,改修者の名である。日本の河川で人名がついているのは,この川だけではないか。

秀吉の子飼いの大名には土木家が多かった。城普請の藤堂高虎,石畳と灌漑土木の加藤清正が有名だが,加藤嘉明や福島正則でさえ,凡庸ではなかった。もともと秀吉の才能における技術面というのは,土木であったろう。

重信は,通称を半助,のち半右衛門とあらためた。地元が自然に名付けるとすれば半助川とでもよんだろうが,わざわざ諱いみなを河川の名にしたというのは,嘉明自身の命によるものといっていい。領内の重要な河川に家臣の名をつけるなど,よほどのことであったろうと思われる。

司馬遼太郎「街道をゆく14 南伊予・西土佐の道」

福島正則,藤堂高虎の治政の後,寛永12年(1635年)今治城に入部した久松定房は,木曽川,長良川及び揖斐川の濃尾三川が伊勢湾にそそぐ低地帯 伊勢長島からの移封。ここから明治維新まで,久松松平家による治政と治水がはじまる。

濃尾三川と同様に流路が変動する蒼社川の治水にあたっては,流域全体にわたり流路を確定させ,堤防と護岸を強化する必要があり,長い工期と相当の経費が見積もられ,容易には着手できるものではなかった。
宝暦元年(1751年)第四代藩主久松定基は,蒼社川の改修と付け替えを執行する判断を下す。工期13年におよぶ「宝暦の改修」である。

藩主久松定基,定郷,定休の三代にわたって行われた蒼社川の大改修は,蒼社川の歴史の一大転換期であったといえよう。こうして完成された蒼社川は堤防の外側に,さらに二重三重の副堤防をもつという洪水対策の手段がとられていた。

今治市・玉川町及び朝倉村共有山組合 今治地方水と緑の懇話会「今治地方水と緑の文化史」

今治平野で「宝暦の改修」が施工されていた宝暦4年(1754年)2月,久松家ゆかりの大垣藩,桑名藩,長島藩の各領内を含む河口から50~60㎞にわたる流域,193ヵ村におよぶ濃尾三川の「宝暦治水」が起工された。
濃尾三川下流域部の分流を最大の目的とした治水史に名を刻んだ難事業。御手伝い普請として,幕命は薩摩藩に下された。

濃州勢州尾州川々御普請御手伝被仰付,候間,可被存其趣候。尤此節不及参府候
たったこれだけの紙面である。字数にして四十字にも足らぬ紙きれが薩摩全土にもたらした打撃の大きさは,だが,軍兵百万にまさるとも劣るまい。

杉本苑子「孤愁の岸(上)」

御手伝い普請総奉行に就いた薩摩藩御勝手方家老 平田靱負正輔の戦場は,美濃に留まらない。既に六十万両の借財のある薩摩藩にとって,大坂での資金調達もまた戦であった。

そうだ,金策……これだ。何よりも今度のお手伝い普請は,金との戦いなのだ。水と戦う前に,まず金の亡者共と戦わねばならぬ。

肝心の店主は,それだけでは何万両という融資を承知してはくれない。彼らの狙いは,薩摩藩の財源である黒糖や薩摩焼の陶磁器であった。

薩摩藩の利益率は極めて高く,黒糖は藩の重要な財源であり,また大坂商人たちの商魂の的であった。

豊田穣「恩讐の川面」

工期1年3ヵ月,薩摩から947名を動員した四工区全てが竣工。

全工程を通じての圧巻といっていい『油島千間堤』を前にした時など,牧野目付はもちろん,検分役のすべてが,とりわけ驚嘆を隠そうとしなかった。

杉本苑子「孤愁の岸(下)」

総事業費四十万両,薩摩藩七十七万石の二年分の全収入を上回る巨費のうち,二十二万両は大坂の銀師等からの借入金。平田を含む54名の割腹者と33名の病死者,そして平田の辞世の句を礎として,普請は完了した。

住みなれし里も今さら名残りにて 立ちぞわづらふ美濃の大牧

濃尾三川の完全分流は,「明治改修」明治20年~45年(1887年~1912年)により実現。当時の国家予算の約12%に達する事業費を投じて,三川はいまの姿となった。

明治改修に先立つ明治18年(1885年)政府は名古屋・大垣間の鉄道敷設に着手する。この工区の最大の難所が,濃尾三川の架橋工事。長良川橋梁の設計を担当した英国人技師 チャールズ・パウナルによる橋脚設置工事は難航した。
この局面を打開すべく手配されたのが,山口県,愛媛県で素潜りに熟達した漁師「海士」だった。海のない美濃に参じた伊予の海士たちは,長良川で素潜り潜水の技を発揮し,橋脚設置は予定通り完工した。郷里を離れた海士たちは,完工後も故郷の海に帰ることなく,陸に上がって鉄道敷設工事に従事したとのこと。
(中濱武彦「開拓鉄道に乗せたメッセージ 鉄道院副総裁 長谷川謹介の生涯」)

明治政府が,オランダ人土木工学家ヨハネス・デ・レーケの改修計画に基づき三川分流工事を施工していた明治36年(1903年)3月,旧松山藩領の愛媛県周桑郡田野村長野(現在の西条市丹原町長野)に,「近鉄中興の祖」と称される佐伯勇が生を享けた。

佐伯の郷里丹原は,住み良いところであった。年間を通じて温暖で,風水害や霜害の影響もほとんどない。したがって,そこに住む人たちの気質も,穏やかである。ということは,破綻を嫌い保守を尊ぶことになる。

「変わり者」には住みにくいところかもしれない。盆地社会での変わり者とは,まず第一に,自らが学問や芸術を志す者であった。丹原にかぎらず,日本の農村社会では,「百姓に学問はいらない」といってきたのである。その志を抱いた者は,そこに居つけず,山を越えてムラを出てゆくしかなかったのである。

大正5年(1916年),13歳になったばかりの佐伯少年は,桧皮峠を徒歩で越えて松山へ出ていった。

神崎宣武「近鉄中興の祖 佐伯勇の生涯」

丹原の生家から中山川沿いに桧皮峠を越え,重信川上流部を横河原に下り,列車で松山市街に至り,旧制愛媛県立松山中学校に入学。その後,滋賀県立膳所中学校,京都府立京都第一中学校第三高等学校東京帝国大学を経て,昭和2年(1927年)7月大阪電気軌道株式会社(大軌)に入社する。
奇しくも同年は,後に近畿日本鉄道株式会社初代社長となる種田虎雄が鉄道省から大軌に転じた年。佐伯は,大垣藩士を父にもつ種田から20年にわたって薫陶を受けることとなる。同時に,薩摩の平田靱負と同様,新設改良工事に伴う資金調達,名古屋への路線延伸に立ちはだかる濃尾三川との社運を賭けた闘いに挑むことにもなる。

(会計部長の証言)
日銀の金融引き締めが徹底していましたから,銀行も渋い。(中略)メインバンクでさえ,運転資金しかまわしてくれん状態でした。

必要資金はなんやかやで約45億円でした。そのうち,どうみても25億円が足りん。じつは,工事がはじまったときも,そのメドがたってたわけじゃあないんです。

昭和11年(1936年)1月大軌は系列会社を通じて,桑名・名古屋間の建設工事に着手。濃尾三川の既設橋梁の補強工事ではあるものの

工事は,必ずしも順調にいったわけではない。折からの日中戦争で,建築資材や人夫の確保が困難をきわめた。しかも,水郷地帯の百三十余ヵ所に及ぶ橋梁や国鉄線との立体交差,更に名古屋地下駅の建設など,難工事の連続であった。

この工期の間に,種田が社長に就任すると,佐伯は秘書課長となり,種田・佐伯ラインが確立する。昭和19年(1944年)6月大軌を母体とする近畿日本鉄道株式会社が設立され,敗戦後の昭和26年(1951年)12月に至り,佐伯勇は社長に就任した。

近鉄の名古屋延伸にとって残された課題である軌間統一による名阪直通サービスの提供。名古屋線改良工事の一環として,工費23億円,当時複線の鉄道橋梁としては最長となる揖斐・長良川橋梁(987m)と木曽川橋梁(861m)の架け替え工事に着手したのは昭和32年(1957年)7月。

そして災害史に残る昭和34年(1959年)9月26日を迎えることとなる。

瞬間最大風速60m以上,暴風半径200㎞という超大型の勢力で近畿東南部を斜めに横断した台風15号(伊勢湾台風)。死者行方不明5,276名に上り,近鉄の被害総額25億円,被災社員は700余名,名古屋線はほぼ全線が冠水した。

満目水没の中に前記2大新橋梁が厳然無傷のままにあるすがたを,かつ,この時までに準備工事が相当進捗していることを知り,新橋梁を手がかりに,拡幅工事を予定より繰上げ,復旧と同時に名古屋線全線の広軌化を一挙に実現することが,この際における最善の方策であるとの確信を得て,社を挙げてこの方針の下に進むことになった。

以上,近畿日本鉄道株式会社「 50年のあゆみ」

揖斐・長良川橋梁が完工したのは昭和34年(1959年)9月19日,木曽川橋梁にいたっては25日に完工。台風襲来のまさに前日であった。

昭和34年(1959年)11月27日名古屋線の復旧と軌間拡幅工事は完了した。近鉄史に残る転機となり,名阪直通特急の運転が実現した。

自叙伝を好まなかったという佐伯が公にした数少ない故郷への想いが,「わがふるさと」として西条市佐伯記念館・郷土資料館(西条市丹原町池田)に掲げてある。

私は此の村に生まれ,小学校を卒えるまで此の村で育った。世間の誰れ彼れ同様,元気な少年時代の常として無邪気な乱暴もしたが,ふるさとの美しい山や川は,我々腕白少年を暖かい寛容を以て育てて呉れた。中山川に沿う琴平街道の「金毘羅大門より二十二里」のひなびた古い標柱も,腕白時代の縄張りであった。

佐伯勇「わがふるさと」

遠く故郷を離れ,濃尾平野の流れに挑んだ薩摩藩士は義士となり,平田靱負は油島千間堤の治水神社に祭られている。
その川面にすがたを映して,丹原の腕白少年が実現した列車が長い橋梁を駆け抜けていく。
度重なる水害の歴史のなかで再起する人間に相応しく「ひのとり」と冠した列車が。

そして,美濃の濁流は作家と作品を後世にもたらした。
「孤愁の岸」により杉本苑子が第48回直木賞を,「長良川」により豊田穣が第64回直木賞をそれぞれ受賞し,作家としての人生を確かなものにした。

私は川面をみつめた。――通常,川は流れるといわれるが,このときの体験は,極めて平凡である。川は流れるのでもなく,水が変わるのでもない。流れるのは人間の歴史であり,移り変わるのは,歴史を渡る人間の姿だけではないのか。いつの世にも同じことが行われ,その解決はない。その無解決の中を,無心に冷やかに流れて行くものがあるとすれば,水だけしかないのかもしれない。川は時に激流をみせ,奔逸を示す。歴史も同じであろう。生まれるものは生まれ,滅びるものは滅びるのであるが,ときに歴史の激流や奔逸はその度合を早める。人間にはそれを予見する力が与えられていない。過去をもって未来を推測しても,当たるとは限らず,そして,未来が予見されても,それに対する手当を怠ることが多いのである。

豊田穣「長良川」

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