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村上春樹「レキシントンの幽霊」を読む #1

那古野の友人Nが、読書会で村上春樹の短編「レキシントンの幽霊」をテキストとして取りあげるという。
あいにくぼくは参加はできないのだが、せっかくなのでこれを機会に再読してみることにした(テキストは基本的に『村上春樹全作品1990-2000③』所収のものとした)。

ぼくはこの小説について、ひとつ勘違いをしていることに気がついた。
この短編の発表時期だ。これは1996年10月「群像」に掲載発表されている(「群像」掲載はショートバージョン。単行本化のさいにはほぼ倍の分量になっている)。

ぼくはてっきり『ねじまき鳥クロニクル』第三部が刊行される前の作品だと思いこんでいた。だからSNSで友人宛ての投稿に「『ねじまき鳥』の原点ですね」と書いてしまったが、これはまったくの勘違い。
『ねじまき鳥』第三部は1995年8月に上梓されている。なので、村上春樹が『ねじまき鳥クロニクル』をすべて書き終わった後の短編なのである。

「レキシントンの幽霊」という短編は、レキシントンにある古い屋敷に幽霊がでて、その〈現象〉に主人公が遭遇しそれでお仕舞い、という単純な話だとばかり思っていた。
だからというか、ぼくはこの小説に対して特別な印象を持っていなかった。

それに加えて、池澤夏樹の文芸時評(『読書癖4』所収)に書かれていたことがぼくの中で妙に残っていて、その影響もあったかもしれない。

一応の読書体験を持った上で初めて村上春樹を読む者はこの技倆に感動するだろう。表題作(「レキシントンの幽霊」のこと:引用者註)を例にとれば、語り手はボストンに近い町にある友人の家に留守番として泊まり込み、夜中に幽霊たちのざわめきを聞く。静かな感興がある。しかし、あからさまな「感動」への誘いはない。メッセージはない。あるのは滑らかな語りであり、淡い情緒であり、読む快楽である。いわば共犯意識の上にのみ成立する快楽。

この一文だけを読めば悪いことは何も書かれていないのだが、それに続く文章がアタマに残っている。

その一方、この短編集を律する過剰な技術主義、職人的な磨き上げの姿勢に、いわば早すぎる老成を読みとって戸惑うことも事実なのだ(この文芸時評は1996年12月のもので、この時点で村上春樹は47歳:引用者註)。そのひとつはパターン化。穏やかな日常生活に怪物が乱入するという話を村上春樹は何度となく書いている。軽いホラーと言ってもいい。

ここで言う「パターン化」が顕現した作品というと、例えば「緑の怪物」とかあるいは「眠り」とかになるのだろうか。
とまれ、池澤のこの文章がぼくのなかで勝手に熟成されて、個人的にははあまり良い印象の短編ではないことは確かである。
それでも、せっかくなので、もう一度ゆっくりと読むことにした。(つづく)


レキシントンの町並み

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