視覚障がいを知ろう(6)ブラインド&ロービジョン 少年時代の思い出
『法友文庫だより』2013年夏号より
視覚障がい者は、どんな日常を過ごしているの? 幼い頃はどうしていた? 霊友会法友文庫点字図書館の職員で、ロービジョン(弱視)当事者であるMと、ブラインド(全盲)当事者である岩上義則 館長が、対談形式で様々な角度から「視覚障がい」を語ります。
第1回のテーマは「少年時代の思い出」です。
岩上義則館長…昭和10年代生まれ 石川県出身
職員 M…昭和30年代生まれ 東京都出身
障がいは関係ない。
とにかく外で遊びまわっていた
M 私が子どもの頃は、今の子どもと違って家の中で遊ぶことが少なく、親に「外で遊びなさい!」と怒鳴られるがごとく言われたものです。
なぜかと言いますと、家の中にいると大体は兄弟とか友達と取っ組み合いしたり、お決まりのプロレスごっこで技を掛け合ったりで、障子や襖紙に穴を開けたりで、褒められることは一切ないからですね。
小遣いも駄菓子屋に行って5円、10円の物を買えばすぐに無くなりますから、後はお金を使わない遊びを考える。
岩上 Mさんとは年齢がずいぶん違うのに、子どもの頃の時代背景が以外に似ていますね。違うのは、私は山間僻地なので環境ですね。それが遊びにも大きく影響していると思います。
山・川・田んぼが遊びの舞台ですから、ドジョウやタヌキがお友達。パソコンのゲームもないしテレビもありません。自然に外遊びが中心になりますよね。特に私の田舎では竹や木に登るし、水遊びも盛んでした。
ただ、私の場合、5歳で失明したことで、親が他の子どもと同じ遊びをさせたら危ないと思ったのか、家に閉じ込めようとする傾向が強かったです。
ところが、私は親の言うことを聞くような、いい子ではなかったので、他の子どもと一緒に外で遊びましたけどね。
駄菓子屋の思い出
岩上 駄菓子屋では5円や10円で何が買えましたか? 飴玉とか風船ですか? 私は音と煙が出る玩具が好きで、テープ状の火薬を爆発させるピストルのようなもので遊ぶのが大好きでした。
M へぇー、それは驚きですね。館長の子ども時代にも同じような渦巻き状の火薬を使ったピストルがあったんですか。私も駄菓子屋で買ってギャングごっこをしていました。値段は思い出せませんが、乱暴に使うとすぐ壊れてしまい、残った火薬は伸ばして石をぶつけて破裂させて楽しんでましたね。
岩上 実は私の村には店というものがありませんでした。時々、祭りでもないのに出店が来るんですが、そこでいろんな玩具を買うんです。私が「ピストルをくださ~い」というと、店主が他の人に「この子にピストルなんか売って大丈夫かな」なんて聞くんですよ。私はそれに腹を立てるんですが、今となれば店主の気持ちが分かりますね。
M 駄菓子屋には結構、博打っぽい物もありましたよね。例えば、長い糸が着いた飴玉。これは大きさの違う飴玉がビニールの袋に入っていて、長い糸が束になって外に出ているからどの飴玉に着いているか分からない。いずれも5円だから一番大きなのを取りたいのですが、なぜか小さいのしか取れない。
岩上 飴の方はかなり違うな。私が知っているのは、棒が付いた、黒砂糖で固めたでっかい固まりで、口にも入らないくらいに大きかったのを覚えています。ひし形だったような記憶があります。
昔遊びいろいろ
岩上 ビー玉はどうですか? 大小いろいろで、ツルツルピカピカしたやつがありましたねぇ。目が見える子どもは道ででもぶつけ合って楽しむんですが、私はそれが苦手なので、玄関の敷居のように溝とか木枠のあるところで勝負するんです。
「カチン」といい音がしてね、でも自分が勝ったのか負けたのか分からなくて、だまされたことがありましたよ。けれど、それを許さない正義派もいてね、私を救ってくれるんですよ。
将棋なんかでもだますやつがいてね。これは私の記憶が確かなので、すぐにいんちきに気づくんです。そしたら、盤をひっくり返して、コマを奴の顔にぶつけてやるんですよ。子どもって、優しさと残酷さのどっちもはっきりと出すからねぇ。
M 私も将棋は好きで、よく友達と打っていましたが、やはり弱視だと相手が何を動かしたか分かりづらいから、初めの頃は将棋盤に目を近づけて見ていました。でも、相手が「集中できない」と言うので、一手一手動かしたコマを言ってもらうようにしました。
岩上 最近は将棋やチェスなどで遊ぶ子どもはほとんどいないでしょう。もっぱらコンピューターのゲームが中心なのでしょうか。
昔の子どもは遊ぶ道具も違っていたけど、自分で改造したりして、そこに知恵や工夫をするという面もありましたね。他の人よりよく飛ぶ紙飛行機を作るとか、自分の方がよく回るコマを作るとかね。
私は、竹とんぼで遊ぶとき、どこへ飛んで行ったか分からなくなるので、小さい鈴を付けてみたりしていましたが、どうやっても重さが増えるので駄目だったことを思い出します。時代の変化は大きいですね。
M 飛ぶと言えば、子ども時代にはよく神社の境内とか屋根に上って飛び降りることをしていました。何の意味もありませんが、高いところから飛び降りられることが誇らしい、他の子より高い木に登ることが誇らしいなんてことをしていました。が、今は高所恐怖症で、そんなに高いところから飛ぶなんてとんでもない!
岩上 目が見えなくても飛び降りる遊びはけっこうやりましたよ。学校の階段でも、何段上から飛べるかって競争するんですよ。5段が限界だったかなぁ。
M あと神社では、少数だとかくれんぼ、鬼ごっこ、缶けりとかしてましたが、大勢の友達が集まると野球をしました。
ただ、いつも私はお豆で特別あつかい。上投げの球は打てないのでゴロを転がしてもらい、バットを地面に這わせて振りぬいて打つことをしていました。そうやっていても仲間はずれにはなりませんでしたね。
岩上 Mさんは目が見えにくいと言いながら晴眼者のようなものだと思っていましたが、他人が思うよりも不自由だったんですねぇ。ゴロベースをやったなんて思いませんでしたよ。
遊び仲間も、どこまで一緒に遊べるのか判断が難しいでしょうね。私のように、一目瞭然に見えないことが分かれば仲間の対応も楽でしょうが。
M 子どもの頃は今よりずっと視力もありましたから、大雑把な遊びは出来ましたが、細かな遊びとかはハンデがありましたね。ただ、野球で一度だけライナーを取ったことがあります。体育の時間に野球をやった時でした。
ショートあたりを守っていた時、“絶対に自分のところには球が飛んでこないように”と祈っていました。でも、もし飛んできたら怖いからと、グローブを顔の前で構えていました。すると、バッターが打った球が飛んできて、私のグローブに入ったのです。一瞬辺りが静まりかえったかと思うと、直ぐに皆が大笑いしたのを今でも覚えています。
それぞれの故郷に思いを馳せて
岩上 さすがにMさんには経験がないと思うけど、昔、田舎の道を材木を運ぶ荷馬車が走っていたんですけど、通りかかるのを待って馬車の後ろからよじのぼるんですよ。
ところが私は、うまくできない。そうすると、仲間が私の手を引いて一緒に走るんです。そして馬車に最接近したところで手を放す。それで私も馬車にしがみつくことができるので、みんなと乗って遠くの川などへ泳ぎに行くんです。それが何よりも楽しかったなぁ。
M 私が小学生まで暮らしていた家は、すぐ裏が中川という川があって、よく土手で遊んでいました。が、「川には絶対に入ってはダメだ」ときつく親から言われていましたし、高いコンクリートの堤防もあって水面を見るには堤防をよじ登るしかありませんでした。それと昭和40年代の東京の川は、工場から流れ出る汚水や家家からの排水もあって凄く汚かったし、臭かったから川遊びは非常に危険でした。
岩上 東京の川が臭くて汚いのは話には聞いていましたが、それほどまでにひどいとはねぇ。私にとって川は故郷の象徴のようなもので、きれいなのが当たり前ですから、三浦さんの川の話は悲話に聞こえてしまいます。
メダカやフナがスイスイ泳いでいて、石を投げたり、沢蟹を捕まえたりできる実に楽しい場所でした。沢蟹は石の下や穴の中にいるので、目が見えなくても上手に捕まえることができました。蟹に手を挟まれて痛い目にも遭うけど、実に楽しい遊びでした。
その川も、今では暗渠(あんきょ)に閉ざされてしまいましたけどね。私は北陸育ちですから雪国です。春になる頃雪溶け水が滔滔(とうとう)と音をたてて流れるんですが、それが心を爽やかにしてくれるんですよ。岸辺に立って、いつまでも聞き入っていたのを思い出しますよ。
M 私にとっての故郷の象徴は、やはり街中になりますね。夕方になると豆腐屋のラッパの音や烏がカーカーと鳴きながら夕日に向かって飛んで行く。そろそろ帰らなくっちゃと思う反面、遊びに夢中になると、ついつい遅くまで遊んでしまう。すると母ちゃんが来て、「もう帰りなさい」と迎えに来たものです。なぜここにいることが分かったのかと、いつも不思議に思いました。
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