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まい すとーりー(21)杉山和一の数々の伝説

『法友文庫だより』2024年春号より
霊友会法友文庫点字図書館 館長 岩上義則


 昨年の11 月18 日、バスツアーの呼びかけに応えて江の島へ出かけた。江の島は湘南地域を構成するごく狭い一区画であるが、50年前に海水浴を楽しむべく片瀬海岸へ行った懐かしさもあって、参加を決めた。江の島には江島杉山神社があり、鍼の神様・杉山和一(すぎやま わいち。以下、和一)が祀られている。和一の名は按摩・鍼・灸(三療)を営む視覚障がい者なら誰もが知っているはずだが、和一は江戸時代初期の鍼の達人で、鍼術の手法の一つである管鍼法を考案し、杉山鍼治講習所を作って鍼の教育と普及に貢献した盲偉人である。

 この鍼術は、視覚障がい者の代表的な職業として今日まで連綿と受け継がれており、和一の遺徳は「杉山検校遺徳顕彰会」によって伝えられ、しのばれている。
 では、三療業に関わらない私が何ゆえに杉山神社へ出かけたのかの話をする。それは、私自身、若い頃は、鍼を業として生きることを確信して学んでいたし、事実、鍼の道が好きで、和一を崇めてもいる。だから、和一が弁才天の信仰に厚く、技術の上達を祈願して江の島弁天に100 日の願掛けをして成就したという伝説も当然知っている。

弁天礼拝体験記

 弁才天はあちこちにあり、私の出身地・能登地方の志賀町にもある。だから、1度だけでも行きたくて、「連れていってくれ」と何度も兄貴にせがんでいた。それが実現したのは、東京で暮らすようになってからになった。弁才天は、ヤセの断崖(※注)付近に今も存在する。弁天様は断崖から数10 m離れた洞窟の奥に安置されていた。兄貴が言うには「弁天様を拝むのはいいが触っちゃダメだぞ。神様は裸だし、とにかく、どこもかもリアルに彫ってあるんだから、うかつに触りでもしたらバチがあたるぞ」
「あそこもか?」と私が訊くと、兄貴は察したらしく「もちろんだよ」と答える。

 私は日本海の荒波を後方に聞きながら、弁才天の監視人に導かれて、そろそろと洞窟に入っていった。10 歩も歩いたかどうかのあたりで、「ストップ!」と言う兄貴の大声が洞窟の低い天井に響いた。私は、ぶつからないように頭を下げながら前に手を出すと、なるほど、あぐらをかくような姿勢で、琵琶を抱えた弁天様が座ってござった。触っちゃいけないと言うが、「触ってなんぼ」の世界に住む私にそれを注文するのは酷であろう。結局、素裸の弁天様の全身をくまなく触りまくって禁を犯してしまった。「ごめん
なさい」と心で詫びて手を合わせたがもう遅い。そこへ、目を覚ますような兄貴のどなり声が再び飛んできた。

「何してんだよ。早く出てこんか」

 私は、その場では冷静にふるまっていたつもりだったが、兄貴に「おまえ、神様に痴漢を働いただろう」とまで言われては「本当に神のバチがあたるかもしれない」と恐れの混じった後悔に胸を塞がれたものだった。


和一の偉大な業績

 そんな思い出を持つ私であるが、今回の江島神社では、神聖な祝詞を真面目に聴き、有意義な講演を楽しんだ。
 講演によれば、和一は1610 年、伊勢の国で、藤堂高虎の家臣の子として生まれるが、生まれつき目が見えなかった。その和一が鍼の修業に江戸へ出たのは17 歳頃のことだった。江戸では、有名な鍼師 山瀬琢一に師事するも、不器用な上に記憶が苦手で、いかに努力しても鍼の技術が身につかない。ついに破門された和一は、思い悩んで江の島弁才天に100 日の願をかけた。満願の日の朝、和一は浅い眠りの中で夢を見た。丸まった木の葉にくるまるように、細い松の小枝が入っているものを拾った夢であった。これぞまさしく管鍼術を発想する大ヒントになったのである。

 すなわち、丸まった木の葉は施療するときに鍼を収め入れる鍼管のことであり、細い松の小枝は鍼体のことである。鍼術には、管鍼法・撚鍼法・打鍼法などがあるが、撚鍼法は鍼管を使わずに、肌に直接ねじ込むように施術する手法で、やや難しい。和一の鍼の修行が成功しなかったのは、あるいは、この撚鍼法につまずいたからかもしれない。

 これに対して管鍼法は、鍼管に鍼体を収めた状態で肌に押しあててから、指頭で龍頭(鍼の頭部)を弾くように施術する手法である。この方が痛みも軽微で、技術的にもやや楽な手法と言われている。和一が考案した管鍼法は、撚鍼法の短所をカバーするのに大いに役立つことになり、今なお、手法
の中心的地位を保っていると言える。

管鍼法での鍼治療

 また、次のような話もあった。
 弁才天は古くから盲人の信仰対象であったこと、弁才天は江の島だけでなく、厳島弁天、竹生島弁天の三弁天が主であったが、これに富士弁天や金華山弁天の五弁天だったとも、吉野を加えた六弁天であったとも語られた。和一の弁才天信仰は特に熱心なもので、山瀬琢一に破門されてからの和一の悩みが深刻だっただけに、江の島弁天への願掛けは必死だったことが想像される。
 さらに、琵琶や箏、三味線など、盲人の職業につながる楽器との関連についても講演の中で解説された。それを裏付けるように、神社の奥津宮には筝曲山田流の創始者、山田豊一の銅像もあるとの話を聞いた。

 もう一つ、和一に関する面白い伝説がある。
 和一は徳川4代将軍家綱、5代将軍綱吉の御殿医として2人の持病を治療していた頃の話である。綱吉の病が全快したとき「何か褒美を取らせたいが、望みを申せ」と問われた和一は、「小生は目が一つ欲しゅうございます」と答えた。 これに対して綱吉は「それはちと難題な話じゃが」と首を傾げた後、「しからば本所の一角を分け与えるによって、そこを『一つ目』と称するがよかろう」と言ったとか。実に機知に富んだ話である。

 和一は、鍼術の発展に貢献するだけでなく、世界初の視覚障がい者教育機関とされる「杉山流鍼治講習所」を開設した。そこから、多くの優秀な鍼師が誕生。鍼・按摩の教育の他、当道座(盲人の芸能集団)の再編にも力を入れた。

 このように、和一が江戸時代に盲人の鍼・按摩の教育を確立し、これを盲人の職業として定着させたことが、明治の盲学校設立後の職業教育に三療が取り入れられた経緯へとつながる。これは、1874 年にフランスでヴァランタン・アユイ(Valentin Hauy)が盲人の教育を始めた80 年前の元禄6(1693)年の話でもある。

 このように、それから300 年の長きにわたって栄えた鍼術ではあるが、今日、三療業は危機的な状況を迎えている。鍼を学ぶ視覚障がい者が激減し、国家試験の不合格者が増加し、さらには晴眼の無免許者が横行する時代に入っているのである。明治新政府によって鍼が盲人の手から取り上げられそうになったり、第二次世界大戦後にGHQによって鍼が禁止されそうになったりなど、幾多の困難を乗り越えてきたすべての努力が水の泡と消えそうな
心配さえされる今日この頃である。そんな現状も江の島で眠る和
一の墓前で報告してきたバスツアーだった。

※注 ヤセの断崖…… 石川県羽咋郡志賀町笹波にある断崖絶壁。能登
金剛と呼ばれる複雑に入り組んだ海岸線や奇岩・奇勝の数々が見渡せる。 
 松本清張の小説『ゼロの焦点』の舞台で有名。断崖の先端は海面から約80 mの断崖。数年前までは崖の間際まで行けたが、先端部が崩れ、今は立ち入り禁止。崖上から一望する日本海の眺めは定評がある。断崖上に沿って設置された遊歩道は、「義経の船隠し」の伝説にもつながっている。     (Wikipedia より引用)


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