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まい すとーりー(22)視覚障がい者の私、難聴と向き合う

霊友会法友文庫点字図書館 館長 岩上義則
『法友文庫だより』2020年春号より


難聴に見舞われて

 私に難聴の気配が忍び寄ったのは約10年前。それまで「自分の耳は小さな針1本落ちても聞き逃さない」と過信してきただけに、その自信が大きくぐらついただけでなく、生きる元気さえ弱めかねない衝撃でした。そして、難聴について全然関心事ではなかったものが、症状の進行、難聴の仲間のこと、聴覚の働き、補聴器の性能などが、いつも心を離れないようになってしまいました。

 難聴の症状は人によって異なると思いますが、私固有の特徴かなと感じたのは、音量が十分で発音も明瞭な人の声であっても、自分の耳には正確に意味が聞き分けられないことでした。そうなると、どうしても「何ですか? もう1度お願いします」と言って聞き返すことになり、これが耐えがたい苦痛とストレスになるのです。

 聴力の低下というのは、どうやら一律ではなく、高音か低音のどちらかの感度が弱まり、それが聞こえ方の違いになるらしいのです。一般的には高域低下の難聴が多いと聞きますが、私の場合は反対で、低域難聴が進んでいるみたいです。だから、低い音質・低い声質の人との会話が困難になります。楽器の音では、バイオリンの音色(おんしょく)は高音が明瞭なので聞きやすいのですが、ビオラやコントラバスのような音色だと聞きづらいといった具合です。

 1年ほど塞ぎこむ毎日でしたが、難聴のままでいるのが不安で、名医で名高い二人の医師を紹介されて受診しましたが、2人からはいずれも「それは加齢難聴ですね」と、すぱっと切り捨てるような診断を告げられてしまいました。私としては、たとえそうだとしても、せめて、感音系難聴なのか伝音系難聴なのか、進行を緩やかにする薬があるのか無いのかくらいの思いやりのある説明がほしかったので、それ以来医者に行くことは止めてしまいました。

 

うれしかった仲間のアドバイスと難聴の実体

 難聴が続いたとき、ふと思ったのは「同病の仲間を探して経験を聞けば改善の方法が見つかるのではないか」という期待でした。そこで、私も読者になっている録音雑誌『ネットワーク カモメ』の誌上で、難聴で困っている話をして、「同じ悩みを抱える読者がいたら、ぜひアドバイスしてほしい」と訴えてみました。

 すると、すぐに反響がありました。「難聴は進みこそすれ治らない」「こんな薬を飲んでみたら?」「補聴器を試してはどうか」など、経験に基づく温かいアドバイスをたくさんいただきました。

思わぬ驚きもありました。それは、視覚障がい者には、老いも若きも難聴がとても多いという事実です。世間には、「視覚障がい者は耳がいい」という定説があるし、私自身も、これまでその定説を疑うことはありませんでした。ところが、実際は反対だったのです。

 なぜそうなのか?「視覚障がい者は耳を酷使するから」というのが大方の意見でした。なるほど、自分の生活スタイルから言っても耳を酷使する場面が多い。

 酷使の理由を、次の2つに分類できそうです。

 第1は、パソコンやデイジーの読書などにイヤホンの使用が日常化していることです。
 今やパソコン無しでは生活も仕事も成り立ちません。私も、1日のかなりの時間パソコンに向かっています。作文やメールだけではありません。サピエの利用、新聞の閲覧、辞書引きなど、パソコン無しでは仕事も趣味も収まりません。パソコンから離れても、ラジオやデイジーに耳を傾けている時間が長いです。しかも、パソコンを使用中は他人に迷惑がかからないように、たいがいイヤホンを付けています。

 第2は、一人歩きの耳への負担です。一人歩きは、記憶力・足裏感覚・聴覚情報の総合でなされますが、特に聴覚による注意集中が強いだけに、耳の負担と疲労は極限状態になります。視覚障がい者は音で情報を判断する、というより、音で物を見て情報の確認をしているという言い方が適当かも知れません。今、音と言いましたが、正確には反響、つまりエコーの変化で情報を「見」ていることになります。

 視覚障がい者の耳の特性と聴覚の活用状況から言えば、同じ難聴でも晴眼者と視覚障がい者では不自由の本質が全然違うと言えます。晴眼者は視覚依存が主なので聴くことは情報取得の補助的行為にすぎない場合が多いと思いますし、そのため、耳が潜在的に持っている有力な機能を休眠状態にしています。
 これに対して視覚障がい者は、晴眼者が休眠させている耳の潜在能力を引き出してフル活用します。だから、晴眼者も難聴は不自由でしょうが、耳を目にして生きねばならない視覚障がい者と比較すれば、不自由の度合・意味合は全く異なることになります。

 こんな比較をしてみました。耳の機能が少しだけ休眠している晴眼者でも、洞窟に入ったりアーケードを通ったりするとき、反響がはっきりと変わることを経験していると思いますが、視覚障がい者の場合はもっと微小なエコーの変化を逐次捉えて状況判断の手がかりにしているのです。
 
例えば、路が広い・狭い、空間が出現した、屋根・壁の有無、天井の高低、駐車している車の発見など。このような感覚を磨いていればこそ、路やホームを歩きながら障害物を発見したり、触れなくても通り過ぎる柱やポールの数を数えたりする高度な歩行術が身に付くのです。いわゆる、勘の良し悪しは、このエコー感知能力・立体感覚のレベルを言うのだと言っても間違いないでしょう。

 

補聴器類の支援機器に期待

 最後に、難聴者の多くが使用する集音器・補聴器類の問題に関して私見を述べてみます。

 結論から先に言えば、両器とも、まだ究極の支援機器にまでは発達していない気がするのです。ただし、私の使用歴は体験使用の域に留まっていること、多種類の製品を見ていないので、断定は控えるべきかもしれませんが。しかし、はっきり言えるのは、多くの使用者が補聴器類の感度に強い不満を持っていること、高額の値段に困っていること、耳に付けるワズラワシサを訴えていることなどは確かです。

 晴眼者の場合は視覚依存が強いので不満の深刻度は小さいかとも思いますが、補聴器が視覚障がい難聴者の命綱とも言えるツールだけに、現在の性能のままでは本当に困ります。補聴器には聴力の改善以上に聴覚の機能を充実させてほしいことから、メーカーには今後の尽力に大いに期待したいと願っています。

 

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