まい すとーりー(3)親孝行を考える

法友文庫点字図書館 館長 岩上義則
(『法友文庫だより』2013年春号から)


親孝行の実態

 霊友会青年部のスローガンは、「親孝行が世の中を変える!今、誰かの力に」である(注:2013年当時)。
 現代社会で最も歪んでいるのが親孝行の問題だと言われるだけに、霊友会の若者がそれに真正面から向き合うのは素晴らしい。だが、親孝行の実践をどのように積み上げていくのか、そもそも親孝行とは何か、をどう示して活動を高めているのか、簡単なことではないだけに困難にも直面しているのではないかと気にかかる。最も身近な先祖供養が親孝行だともいえるので、青年たちがこのスローガンに注ぐ熱意に私も注目していきたい。

 ところで、釈尊の教えにも親孝行がある。釈尊は生まれて7日目に母親を亡くされたが、父親は79歳まで生きられたそうだ。その釈尊が親への敬愛や看病に向き合う姿勢について述べられた「父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)」を読んだことがある。

「父母病あらば、牀辺(しょうへん)を離れず、親しく自ら看護せよ。一切の事、これを他人に委ぬること勿れ。時を計り便を伺いて、懇(ねんご)ろに粥飯(しゅくはん)を勧めよ。親は子の勧むるを見て、強いて粥飯を喫し、子は親の喫するを見て、抂(ま)げて己が意(こころ)を強くす。親暫く睡眠すれば、気を静めて息を聞き、睡(ねむり)覚むれば、医に問いて薬を勧めよ。日夜に三寶に恭敬(くぎょう)して、親の病の癒えんことを願い、常に報恩の心を懐(いだ)きて、片時も忘失すること勿れ」。
 きちんと解釈をする力はないが、「看病は一切を他人にまかせることなく、みずから最優先でつくしなさい。眠っているときは息遣いに耳を澄ませ、目覚めれば薬をさしあげなさい。ひたすら病の回復を願い、片時も報恩の心を忘れてはならない」という意味だろうか。

 では、一般に親孝行とはいかなる行為を指すのか。『広辞苑』(岩波書店)によれば「親に孝行であること」と簡単な説明書きがある。それなら「孝行」はどうかと引いてみると、「子が親を敬い、親によく尽くす行為」と出ている。また、『新明解国語辞典』(三省堂)によれば、「自分たちを育ててくれた親の言いつけをよく守り、また老後にはその面倒をみること」とある。少し納得したが、言葉で納得できても、辞書の説明と今日の実態、あるいは私自身がしてきた親孝行があまりにもかけ離れているので、”今一度親孝行の問題を見つめ直してみたいと”の考えに至ったのである。

 昔は、親孝行の手本のような人たちが身近に大勢いたように思う。「手本のような」というのは辞書の定義にある、あるいは、自分のやりたいことは一切我慢して、親に反抗せず、なんでも素直に聞くいい子という意味の親孝行である。実はこの手本は、遠い過去の法律や教育の理念にも見ることができる。


親孝行は人間文化の始まり

「親孝行は国の宝」「親孝行は人間文化のはじめなり」とされたのは、西暦701年に日本で初めての法律となった「大宝律令」が定められたときである。そこには、大学の教育を受ける人は、『論語』と『孝教』は必修の科目とされている。また、『孝教』の中に「孝は徳の基なり。教えによって生ずるところなり」として道徳の根本はここなのだと説かれている。
 この定めの原点が、仏教の教えにあるのは明らかであろう。仏教が日本に渡来したのは6世紀のことだが、この時代に生きた聖徳太子が仏教に深く帰依した人物だったことはあまりにも有名で、大宝の時代に反映されたとしてもなんら不思議ではない。それから時代が流れて約1300年。奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、そして近代へと親孝行の文化が受け継がれ脈々と息づいてきたのである。その点では、親孝行のありようは普遍的のようだが、今日におけるそれは、長く守られてきた親孝行とは程遠く、惨憺たるものになってしまったような気がする。

 現代社会の恐るべき風潮「親子が殺しあう」「子どもを虐待する」、こんなニュースが日常的に報道される寒々しい世の中になってしまった。
 親は子を命がけで守り、子は親を心から敬愛し慕う。そんなぬくもりの通う親子関係は、いったいどこへ行ってしまったのか。子は親の存在が疎ましい、親は子を憎いとさえ思う。それが現代にはびこっているとしたら、本当に恐ろしい。この現実を深刻に受け止めて、より良い社会を築くには、あらためて、みんなで歴史に学ぶことをしなければ昔の時代は戻ってこないのではないか。
 今の教育基本法には、社会教育は謳われていても、家庭教育はないし親孝行の教えもない。霊友会青年部が親孝行に真面目に取り組んでいるのも、このような現代社会を心から憂えればこそであり、親子関係の大切さを真剣に願えばこそ、スローガンにしているのであろう。

私自身の親孝行

 これだけ分かった顔をしてしまうと、自分のことが大変書きづらい。と言うのは、私は、国語辞典にあるような「自分たちを育ててくれた親の言いつけをよく守り、また老後にはその面倒をみること」という親孝行とは程遠く、いわば、親の言うことにはことごとく反発し、自分のペースで歩いてきた人間だからだ。

 両親は、我が子の目が見えなくなったことで行動のすべてを「危ない」という理由だけで制限しようとした。一人で家の外へ出てはいけない、刃物に触ってはいけない、走り回ってはいけない。
 親としての思いやりと心配からだろうが、息苦しいことはなはだしく、好奇心が強くて、遊び盛りの少年にはたまったものではない。外で近所の子供の声がすれば、自然に反応して飛び出していくのが私の性分だった。外へ出れば少年たちが連れだって川へ行き、田んぼへ入り、裏山へ登る。そうなれば私も当然行きたくなるし、それをしなければ仲間はずれになる。つまずき、ころびながらも声や足音を頼りについて行く。
 みんなが木に登れば私も登りたい。登るのに苦労していると「もう少し手を伸ばせばいい枝があるよ」と声がかかる。竹馬がはじまると私も貸してもらい、歩き方も習う。たまに置いてきぼりにされたり、履物を隠されたりするが、正義感の強いやつが助けてくれたりしてなんの問題もなく遊べる。親がいかに止めようが危険があろうが、遊びの楽しさには代えがたく、親の心配などどこ吹く風であった。

 両親が私の将来について本気で願ったのは、浪曲師にすることだったらしい。昭和20年代に活躍した浪曲師に浪花亭綾太郎という人がいて、この人は視覚障がい者だった。壷坂霊験記(つぼざかれいげんき)が大ヒットしていた。「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ」のフレーズが人気を呼んでいた。

 しかし、たまたま天才の浪曲師が視覚障がい者だったからといって、我が子にもそれを望むというのは、親心とはいえ悲しく、短絡的としか言いようがない。

 私が20歳になり、東京へ進学したいと言い出したときの母のうろたえようといったら紹介するのも恥ずかしい。泣いてすがって部屋に閉じ込めてしまいかねない取り乱しようであった。それほどに我が子がかわいかったのだろうが、本当の思いやりがあるのなら思い切って「かわいい子には旅をさせる」心境になってほしかった。
 しかし、よくよく考えれば、親にはそういう側面があればこそありがたく、愛の深さが子に染みわたるのかもしれない。母とはいつも喧嘩状態で親不孝ばかりだったが、それでいてどこかでしっかりと通じ合っていたのだから不思議だ。これぞ親子の血のつながり、強い絆と言うべきか。
 今、母への思いに胸が痛むのは、「老後にはその面倒をみること」がかなわないことだ。老人施設に入ってすでに10年。兄嫁の献身的な介護もあって何不足なく暮らしているが、私は面倒をみるどころか見舞うゆとりさえない。せめて何かを買ってやろうとしても、「そんな無駄な金を使わずおまえの暮らしに役立てよ」と言って強く拒む。親孝行は「言うは易く行うは難し」。

 最後に、ここ1、2年、私の誕生日が来る度に思い出す短歌を紹介して本稿の終わりとする。
 「諸人よ 思い知れかし 己が身の 誕生の日は 母苦難の日」

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