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自分は気持ち悪い程生演奏が好きだった、ということに気付いた話


キッカケはなんとなく開いたチケットサイト。開催日直前だったからなのか少しだけ安くなっていたオーケストラのコンサートがあって、その場のノリで買った。ツウな方に怒られそうだが、内容なんか全く知らずに会場に乗り込んだ。

なんでもいいから「感動」したいと思っていた。普通の生活を続けて、何の変哲もない、ただ過ぎるだけの日常になってしまうことが急に怖くなった。ノリとはいえ、藁にも縋るような想いだった。

音楽は好きである。でも今までオーケストラは堅苦しいしよくわからないしと食わず嫌いを続けてきた。折角観に来たコンサートなのに、居眠りでもしてしまったらどうしようか。行く途中急に不安になって、コンビニでドリンク剤を買った。

久しぶりに来た、大きなコンサートホール。その雰囲気に飲まれそうになる。まだ始まらない会場は、客席からの喋り声や足音が厳かに反響していた。その時「あ、これは寝ないな」と確信した。


結論から言うと、本当に寝なかった。それどころか食い入るようにステージを見つめて、頭の中は酔い狂っていた。腰が抜けたみたいに、上手く立ち上がれなくなった。

たまたまオーケストラの中でも、大衆向けな聴きやすい曲ばかりだったというのもある。鮮烈に印象に残る指揮者だったというのもある。

でもとにかく、生音の圧力。

別に爆音をかき鳴らしていたわけではない。表現を通して感じられる緻密な技術。頭の中に情景を想い起こさせるような旋律、ハーモニーの重厚感。決して狭くない会場の隅々まで届いて、豊かに反響を繰り返す音。

間にとられた休憩時間に溜まらなくなってロビーに飛び出して、ひたすら曲ごとに感じたことを殴り書きしていた。興奮が収まらなかった。頭を強く殴られたみたいだった。

私、音楽好きなんだ。

改めてそう思った。


まだ部活を通して音楽と向き合っていた頃、音楽は「知識」と共に聴くものなのだと感じていた。やっぱりこの作曲者は癖があっていいよねとか、この曲は作曲者のこんなインスピレーションがあって、とか。それを知らないと音楽は楽しめないよ、みたいな雰囲気で。私も有名どころは覚えておこうかと思ったのだけど、何故だか気乗りがしなかった。幾何学的な現代音楽の知識など、余計に。

だから好きではあるけど、のめりこめないだろうなと思ってた。


今までの考え方を訂正しなければならない。事前の知識が少なくても、音楽は楽しめる。感動できる。

解釈が間違うこともあるかもしれない。でもその音楽を聴いて感じたことなのであれば、それは紛れもなく音楽に対する率直な「私の意見」だ。だからその感動は、大切に心に秘めておけばいい。

私の感動は私のものだ。


コンサートが終わった後、私は特に気に入った曲の作曲者を調べて、聞けるだけの音楽を必死にかき集めていた。今度は今回の指揮者のことを調べ始めている。マイナーだが、ハマったのならそれはそれでよし。一度この圧を体感してしまうと、止まらなくなる。

感動は自分で感じ取りに行くものなのだと、改めて実感した。


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