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【漫画考察】チェンソーマンから考える「普通」とはなにか?

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チェンソーマンはラストらへんで主人公デンジから「普通」になりたいというセリフが出てきた。その心理がどのように動いていったか、はじめは理解できなかったが、自分なりに思うことをまとめてみた。参考にしたのは以下の2冊で、主には『普通がいいという病』の言葉を用いて説明する。

①言葉の手垢

言葉の手垢とは、その言葉に対する何らかの先入観であり、それが価値判断の基準になっている状態である。例えば「普通」は=「大多数」、「標準的」の象徴であり、チェンソーマンの主人公であるデンジは、衣食住に満足ではない生活を子どもの頃から送っていたことで、そのような「言葉の手垢がついた普通」を目指して戦ってきた。しかしその「普通」はマキマ(ラスボス)に作られたものであり、自分自身では何も判断し、選択してこなかったと語る。

そこで、同僚のコベニから「それ(自分で選択しないこと)が普通でしょ?やなことがない人生なんて、夢の中だけでしょ?デンジ君は普通になりたいの?」と言われ、はっとした表情をとる。ここで初めてデンジは普通は幸せな状態ではないこと意識した。

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②自己実現(マズローの欲求段階説)

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①のコベニの指摘のあと、テレビでチェンソーマンへの声援を見て、デンジが思い描くマズローの欲求段階説でいう「自己実現」の段階に進んでいく。デンジは作中で衣食住が満足し承認欲求まで順に満たされた「普通の生活」を実現していた(ラスボスに実現させられていた)が、その先にある「自己実現」の欲求を意識した。

それは自分の感受性を受け止め、自分がどうありたいか、何に心が動くかを見つめ直したのだと思う。その後出てきた言葉が「朝からステーキ食べたい」、「彼女10人くらいほしい」とかストレートに欲求を伝える言葉であった。

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③自他の区別

そして最後には、命令されるわけでなく自分の口から「チェンソーマンになりたい」とデンジは言う。チェンソーマンになると殺されるかもしれないというリスクを負っても。この言葉は②の「自己実現」の象徴であり、①言葉の手垢を落とし、普通の先にある幸せの方向を自分で決めたことの表現だと思う。

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最後に、自分はこの「自己実現」に人が至るには、人間一人ひとり全員孤独(寂しいという意味でなく自立の意味)であり、人それぞれの「幸せ」があることを意識する必要があると考える。これを『普通がいいという病』では「自他の区別」と表現しており、「普通」(世間一般、大多数)な状態は「幸せではない状態」とある。幸せではない状態というのはちょっと悲しいので、幸せになる前の状態くらいでいいのかな。

以上はあくまで個人の感想なので、チェンソーマンを読んだ人は人それぞれの解釈があると思うし、色々な人の意見を聞いてみたい。でも、こんな風に普通の日常のことを改めて考えさせてくれる漫画を読めたことがとても嬉しい。

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