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【2】1970年代の『ポーの一族』 ――「排除される者」へのまなざし 「家族でいる限り自由になれない」という思いが育んだ

1972年から発表された『ポーの一族』。1巻の発売当初、単行本3万部が3日で売り切れるという社会現象にもなりました。萩尾さんがバンパネラという“異端”を中心に創作した背景には、家族への複雑な思いや、排除されている存在へのまなざしが影響していたそうです。「美少年主人公」と「異端」、そしてエドガーとアランの親密な関係性に、溝口さんが“BL進化論”の視点から迫ります。

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エドガーとアランは「母鳥とひな鳥」

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『ポーの一族(1)』小学館、1974年

溝口 ではここから、70年代に発表された『ポーの一族』から、「異端」が登場する場面を見ていきます。2016年に連載再開してからの同作については、のちに考察します。 先に、これらのシーンが示す内容をひとことでいうと、“「非・異性愛規範的」である”。つまり、「異性愛だけがノーマルで、それ以外はダメとする価値観を否定するシーン」といえます。最近でこそLGBTという言葉が普及して、しかも地方自治体が同性カップルやパートナーであることを認める書類を発行するなど、同性愛が「精神異常」や「変態」などではない、またたんに性癖の問題じゃないということは認知されてきています。

しかし、それでもまだまだ日本社会は、異性愛規範、つまり「男と女が愛し合うのが当然だ」という考え方や、家父長制的価値観、つまり「家族の頂点に父が君臨し、妻や子どもはそれに付き従うのが当たり前」という考え方が強いと思います。

ましてや1970年代というと、女性にとっては、いわゆる「家父長の良い娘」からスタートして、別の家の男性に嫁いで、良妻賢母になる道筋しか見えなかった時代だったと思います。そんな時代の真っ只中で、萩尾さんがこのような表現を生み出された背景を、ここから具体的なシーンに触れながら伺っていきたいと思います。

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『小鳥の巣』(1973年)より 
『ポーの一族』文庫版第3巻(1998年) ©萩尾望都/小学館

溝口 まずは、エナジー交換のシーンから。エドガーは最愛の妹メリーベルのためにアランに近づきます。そしてアランはメリーベルに恋心を抱く。その意味においてはエドガーとアランは一種のホモソーシャル(※男性中心社会において男性特権を有した男たちが持つ絆。しばしば女性を介する三角形をなし、異性愛規範が前提とされている)の関係です。しかし、メリーベルが消滅したあと、エドガーはアランをバンパネラの仲間に加え、ふたりで長いときをともに過ごすことになります。

たとえば、温室でバラのエナジーを交換するこのシーンでは、ふたりのあいだのエロティシズムが描写されています。ふたりで見つめ合って、「どうぞ ぼくはきみからもらう」とアランが言って、エドガーが分け与える。まるでラブシーンのようです。考えてみると、ひとりひとりが少しずつバラから吸ってもいいんですが(笑)、そうではなく、エドガーがアランを通じてもらう、と言っているところがとってもいいなあと思います。

萩尾 ありがとうございます。

溝口 それから、萩尾さんの言葉の使い方やリズムも素敵です。小学生時代の私は、この「エナジー」という言葉がとっても素敵だなと思っていました。のちに、英語で「エネルギー(energy)」にあたる言葉が、カタカナ書きすれば「エナジー」という発音に近いと知ることにはなったのですが。

萩尾 日本では、「活力」とか「動力」を指す言葉として「エネルギー」が使われていたので、半分日本語かと思っていたんですけど、これはドイツ語(energie)なんですね。でも、「エドガーとアランはドイツ語を話すだろうか?」とか色々考えて、「じゃあ英語ではなんていうんだろう?」と調べたら、「エナジー(energy)」だった。『小鳥の巣』は舞台が英国だから「エナジー」にしちゃえと。単にそれだけの話なんです(笑)。

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溝口 なるほど。この「どうぞ ぼくはきみからもらう」というセリフも、スルッと出てきたんですか?

萩尾 まあ、アランのエサはいつもエドガーがとってくるんですね(一同(笑))。そうした、母鳥がひなを育てるような感覚がエドガーにあって、アランが「おなかがすいた」と言えばエドガーがなんかくれる、とパターンが決まっている。それでこういうシーンになりました。
 
溝口 母鳥とひな鳥(笑)。そうだったんですね。

萩尾 アランが「僕が先に食べる!」とか言ったら、きっとエドガーに「パシン!」とやられますよね(笑)。

溝口 (笑)。だから、目の前にバラがあっても、アランも先に食べたりせずに、「母鳥」がいつものとおり運んでくれるのを待つという。

萩尾 そうそう。多分、エドガーの「気」を通したほうがちょっとおいしくなるんじゃないか?……というのもあります(笑)。

溝口 なるほど!

アランが「どうしてもこれをしゃべる!」ときかなかった

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『小鳥の巣』(1973年)より
『ポーの一族』文庫版第3巻(1998年) ©萩尾望都/小学館

溝口 では次のシーン。アランが、はっきりとエドガーへの独占欲を表明する様子も、同じく『小鳥の巣』で描かれています。エドガーが、ロビン・カーとメリーベルのことを考えていると、アランが「ぼくのことだけ考えてくれなけりゃいやだ!」と叫ぶシーンです。これは、ほぼ恋愛の嫉妬のように感じられます。

萩尾 もう、愛の告白ですよねえ。私も「なんてワガママな奴だろう!」って思いながらも、アランがどうしてもこれをしゃべる!ってきかないので(一同(笑))。「お前、そんなにワガママでいいのか?」って言いながら描きました。

溝口 なるほど、やっぱり愛の告白だった(笑)。

萩尾 はい(笑)。

溝口 よし!(笑)

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「男女7歳にして席を同じうせず」の体験が生んだ!? シーラとジェイン、女同士の関係性

溝口 それと、美少年ではないのですが、ポーツネル男爵夫人のシーラが、クリフォード医師の婚約者で、ちょっと地味なジェインという女性について、「わたしとても気に入りましたわ」と言うシーンがすっごく印象に残っています。

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『ポーの一族』(1972年)より
『ポーの一族』文庫版第1巻(1998年) ©萩尾望都/小学館

溝口 これ、もちろんシーラはバンパネラとして、「ジェインという新しい血を、仲間として迎えたい」という意味で「気にいった」と言うわけです。それにしても、女性キャラクターが同性のキャラクターに対して「とても気にいりましたわ、ニヤリ」とするのが、非常にレズビアン的に感じられたんです。

またこのあと、シーラがジェインと帽子屋さんの前で“ばったり出会った”風を装うシーンがありますが、そこではシーラが、「ジェインがより綺麗になるために」と服や帽子を見立てます。それがすっごく楽しそうで、シーラがいきいきとしています。

シーラは、ジェインの婚約者である若い医師のクリフォードも誘惑するのですが、そちらの異性愛の誘惑のほうは、いわゆる色仕掛けです。そう考えると、ジェインにあれこれ衣装を見立ててあげる、という場面のほうが、シーラがうきうきしているように見えるということで、私としてはレズビアン的に感じました。そのあたりはいかがでしょう?

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萩尾 私の子どもの頃というのは、「男女7歳にして席を同じうせず」じゃないけれど、男女間の恋愛についてはほんとにどこもかしこも厳しかったんですね。うちの両親にしてもお見合い結婚ですし、私たちが年頃になってくると、母が厳しく言い出すんですよ。「変な手紙をもらっちゃいけません」とか「男女がふたりで出かけちゃいけません」とか。だから、たとえばクラスメイトと日曜日にどこかに行くとなっても、集団デートなら許可はおりるけど、ふたりで行くとなったら、ものすごく母が気を遣うんです。

溝口 男性とふたりのとき?

萩尾 そうそう。それで聞いてみたんです。「お母さんは学生時代に男の人からラブレターもらったり、デートに誘われたことなかったの?

溝口 おお〜!

萩尾 もう、山本リンダの「困っちゃうわ デートに誘われて♪」の世界ですよね(笑)。そうしたら、母がしらっと「お姉さまからお手紙をいただいたわ」って(会場ざわつく)。「それはいいのか!?」と(笑)。だから、男の人にアプローチするよりは、女側にアプローチするほうがまだ敷居が低いし、言いやすい社会だったんだな〜と思いますね。そうしたことがあったもので、シーラも女性にだったら言いやすいだろうと思って。 

溝口 なるほど! そうですか、お姉さま……(笑)。

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萩尾 この話にはまだ続きがあって。それで、「お母さんはお手紙もらって、どうしたの?」って聞いたら、母の母、つまり私の祖母が「いいお手紙をもらったから、お礼をなさい」「うちにある糸巻きをお土産に持っていきなさい」と(笑)。母の実家は糸屋さんで、糸を売る商売をしていたんですね。ということで、「ありがとう」と言って、お姉さまに糸巻きをさしあげたそうです。

溝口 (笑)。その、いただいたお手紙には「あなたが好きよ」と書いてはいたけれど、「お付き合いしましょう」という内容ではなかったんですか?

萩尾 そうですね。
 
溝口 お付き合いはしないんですか?

萩尾 しないんですね~。

溝口 面白いです(笑)。そのお姉さまも、糸巻きをもらったことで喜ばれたんですかねえ。

萩尾 多分、物資の少ない時代だから。

溝口 ちょっと世代は違いますけれど、私も中高と私立女子校で、お芝居があるといつも男役をやらされていました。女の子からお手紙をもらったこともありましたね。でも、糸巻きは返さなかった(笑)。

「世間の常識」を疑うのが癖だった/「異端」意識した最初の作品は『鉄腕アトム』 

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『ポーの一族』(1972年)より
『ポーの一族』文庫版第1巻(1998年) ©萩尾望都/小学館

溝口 このシーンでは、ポーツネル男爵がエドガーに語りかけるかたちで、“「何を異端とするか」の定義そのものが、人為的構築にすぎない”ということが説かれています。「十字架や塔を恐れるな」「恐ろしいのは…信仰だ」「われわれをふくめいっさいの異端を認めない心 これは邪悪なものだ! これはうそで実在せぬものだと狂信している精神は恐ろしい」と言っている。

ここではもちろん、直接的には、人間によるバンパネラの排除について語っていますが、「どの時代、どの社会の常識も、絶対的真実ではあり得ない」ということを語っているともとれます。

読者自身はもちろん人間なのですが、心情的には主人公のエドガーの側にいるので、同性愛者にかぎらず、差別・抑圧され、異端とされているマイノリティに力を与え得るシーンになっていると思います。とくに「狂信」という言葉がきいています。

一般的に、吸血鬼ものなどの物語では、吸血鬼が異端だということ自体は前提としたうえで物語が展開することが多いように思います。ですが、『ポーの一族』においては、「人間 VS. 異端」の枠組み自体が人為的な構築にすぎないという“そもそも”に踏み込んでいる点が、非常に驚くべきポイントだと思います。こうした場面を描かれたきっかけや動機は憶えていらっしゃいますか?

萩尾 やっぱり、うちの両親が非常にまじめなものですから、“世間の常識に従うにはこうしなければいけない、ああしなければいけない”という抑圧がすごく強かったんです。

異端に関する話で最初に覚えているのは、手塚治虫先生の『鉄腕アトム』です。アトムはロボットですが、たえずロボットだということで差別され、邪険にされている。彼がどんなに人間のために働いても、「けッ、ロボットが」と言われてしまいます。

あるとき、ある国にロボットの大統領が誕生することになり、大騒動が起こります(『デッドクロス殿下の巻』、『鉄腕アトム 手塚治虫文庫全集(4)』収録)。そこで、大統領はロボットの権利を認めさせようとしますが、それに反対する人間が出てくる。そのお話がとても面白かったんです。

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『手塚治虫文庫全集 鉄腕アトム④』
(講談社、2009年)

溝口 なるほど。

萩尾 アトムはSFで近未来の話ですけど、そこにも排斥されている者がいて、心がちゃんとあって、ロボットとして権利を持って生きたいと思っている――これ、排除されているすべてのものに当てはまるお話だなと思って。小学生向けのお話なので、わかりやすい言葉で書いてあるし、すごく印象的でした。それでなんとなく小学生の頃から、世間の常識を疑ってみるのがおのずと癖になったというか、疑うのが気持ちいいと思うようになりました。

抑圧に対するただの反発なのかもしれないけれど、常識といわれているものに対して「本当にそうかな? 誰が言ってんの? 世間って何?」って、いちいち考えてしまうようになった結果、こんなふうになりました(笑)。

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