ゲーム研究:ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム(10000字)

書き溜めたあれやこれやをストックの限り放出するものです。
人間さん、ゲームを遊んでいて、消費者として「これはなんかちゃうな~」と思うこと、多々あるでしょう。しかもそのレビューを見ることも結構あることでしょう。今回はそういう人のために、僕のゲームの面白さの分析とやらを垂れ流していこうと思います。
これは僕のブログなので、僕のロジックで1から10まで固めていきます。付いてこれるやつだけ、付いてきな……

後世に語り継がれる傑作!……でも、なんで?

そんな感じがする。ゲーム体験はけっこうシンプルで、筏を作ったり、車作ったり、ビート版を浮かせたり、トランポリンで飛んだり、ボール吹っ飛ばしたりという具合で、別にこのゲームでなくとも楽しめるなあ、と思った。
言うなれば、素朴な味わいがしたので、何か他に爆発的なものがこれを傑作と呼ばせているのではないだろうか、と思う。

素朴さを支えるシステム面の話をしても意味がないので、ちょっと感情的な面から切り出していこうと思う。いわゆる、プレイヤーが「エモい!」と思ったところを探そうというわけだ。
ここには無限の制作者のこだわりがあるはずで、何かしらの意図を取り出せないかなあ、という風に思っている。

さて、ティアキンの感情パワースパイクは、まずタイトルロゴが出るところだと思う。

ここでプレイヤーは没入から離れて、「ゼルダ始まったな」という
いちプレイヤーとしての感情を取り戻すことになる

ここで「うおお」となるものの、やはりムービーシーンを見ているときは(余程の理由がない限り)ゲームプレイからは除外されるので、ここがゼルダにドハマりするきっかけになることは無いだろう。せいぜい、SNSに『ゼルダ始めました!』という文とセットで投稿するぐらいだろう。スクショタイムみたいなやつか。

スクショタイム

思い出した。このゲームはSNSと相性が良いということを。そしてSNSと相性が良いニンテンドースイッチを使って動くということを。
なんで相性がいいのかというと、そういう風に作られているからである。

宮本さんは、このゲームのコンセプトを「オープンエアー」と呼んでいる。

「(一方)この作品では、世界はゲームでの探検要素や冒険と完全に融合しています」とトリネン氏は続ける。「ただ通りすぎるだけの世界ではありません。プレイヤーがその世界の一部になるような世界なのです。冒険と探検の多くがこの外の世界で起こりますので、この野生の地のテーマを全体として“オープンエアー”と呼ぶのがふさわしい気がしたのです」

宮本茂氏がゼルダ最新作をオープンワールドゲームと呼びたくなかった理由
(https://jp.ign.com/the-legend-of-zelda-hd/3220/news/)

詳細は上に書いているので、興味のある方は今すぐ読んでいただきたい。
超噛み砕いていえば、プレイヤーがやりたいことは何でもできて、それをエンタメそのものにしたい、という内容である。
プレイヤーがゲームと一体化するような、空気感が大事、ということだ。

これが意味するものは2つある。
1つは、ユーザーの欲求にゲームが応えられること。
例えば、暗い所でも探索をしたいから明かりを付けたい、という欲求に対し、ゲーム側に解決策が用意されている、ということである。松明に火をともしても良いし、ティアキンならアカリバナをぶん投げて良い。

2つは、ゲーム側がユーザーに、無意識的に選択を迫ること。
例えば、行きたいところの手前に大きな山をそびえさせる。ユーザーはふもとの部分を迂回するルートと、うるせえ!最短距離で突っ込むぞ!と登頂~下山するルートを思いつくはずで、ここで選択が生まれる。自然と、ゲームの遊び方に幅が生まれる、というわけだ。

こういう工夫もしてあったりする。
この場合は「今登っている山」と、「急に出てきたもの」のどちらに行くかの選択を迫る

ゲームには色々な遊び方がある。自分の好きなキャラを育てても、縛りプレイをしてもいいのだが、断言しよう。「いろいろな遊び方」をする時点でユーザーはあり得ないほどのパッションをそのゲームに注いでいる、と言っていい。

攻略法や最適解が簡単にネットの海で拾える今、わざわざ自分の頭でゲームをプレイする人は減ってきている。ゲームを最短時間で楽しむタイプの人は、結構いるのだ。別に悪いとは言ってない。ティアキンで作ったマシンをみんなに共有して、そこからアイデアを拝借したりするのは全く間違っていない楽しみ方だ。パクっても構わない。ブレワイのバグ技をRTAで披露することも、至極真っ当な楽しみ方の一つで、それを見るのもグッドだといえる。

ゲームは「楽しむための道具」なのだから、それを中心に楽しめるのであればOKだと思う。(僕だって、ポケモンの新作を遊ぶときは、ゲットした新ポケモンのポケ徹をチラ見してしまう。失敗したくないからだ。頑張って育てたバスラオが全然進化しない間に50レベルを越して、頭がおかしくなる経験を繰り返したくないのだ。ちなみにこれはレジェンズアルセウスの話であって、いたいけな膳少年の話ではない。膳(ニートのすがた)が1年前にやったことだ。)
話を戻そう。プレイヤーが何故こうも攻略法を調べてしまうのか?というと、それは「失敗すること」を忌避していて、しかも失敗したことが(そのプレイヤーにとって)つまらなかったことが原因になる。

そこで、ブレワイはちょっと「プレイヤーが迷い、失敗すること」に対してやさしくしたのだ。

『ここはこうすればいけるんじゃないか』と思っても、実際には『あ、これじゃダメだ』ということになるのは、それほどひどい体験ではないと思う」(青沼プロデューサー)

https://jp.ign.com/the-legend-of-zelda-hd/2885/preview/?p=2

これは「努力が安い」ことに焦点を当てるべきだろう。
例外もあるが、ゼルダの伝説において努力は安い。祠は特に安くて、いくらでも間違えて良いし、徒労感を意図的に削っている気がする。
やってみて、間違えるという文字通りトライアンドエラーは、トライにかけた時間や労力が無駄になればなるほど嫌な気持ちになる。うっかりセーブデータが消えた時なんかは、そのゲームを投げて今日は終了!なんてのもありえるが、これを忌避しているのだ。

また、「俺こんなところで躓いてたのかよ~」みたいなところを、物理演算を使うことで「笑い話」に昇華しやすくしているのもある。これを狙っていたかは分からないが、人々の求めていた、「攻略法は調べたかったら調べても良い。でも、調べずに間違えても面白い」ゲームはここにあるといえる。

僕が最初に言っていた、素朴な味わい、というのはそういうことで、面白さ自体にインパクトは不要で、いかに伝えたい体験を正確に届けられるか、というのをしっかりしたのがゼルダなのだろう。

いい感じに解けた、上手くいった体験は制作サイドが既に想定しているものが大半であるが、ユーザーはそれを意識せずに体感してSNSに投稿し、どんどんとゼルダの渦が広まっていくのだ。

大穴へと落下する場面。
体験は「うまく行った!」でなくても構わない。
僕らをワクワクさせてくれるものであればなんでも良いのだ

制作者はゲームを売りたい、プレイヤーはゲームを楽しみたい。この構図は100年前から変わらないが、時代は変わり、プレイヤーを取り巻く環境も変わる。今だと攻略サイトに触れる機会が多い、ということだ。そこで、物凄く素晴らしい統一された攻略法に頭をひねるのではなくて、伝えたい体験を想定し、そのまま伝えるためにガッツリ力を注ぐことにしたのが、任天堂の偉い所だと思うのだ。(今作のモドレコ、ウルトラハンド、トオレルーフなんかはまさにその例だろう。バグの量を見積もるだけでもおかしくなる。)

ゼルダらしさ

では、伝えたい体験とはどのようなことだろうか。
この話をするには、30年継ぎ足されてきた秘伝の体験、”ゼルダらしさ”を紐
解かなくてはならない。

ようするに、『ゼルダ』における「物語」は、
おもしろい仕掛けを最大限生かすために、
どう辻褄を合わすかという機能を担当するもので、
体をひねって着地するのが最大の仕事なんですね。

https://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol5/03.html

ここでいうゼルダらしさは、(一部のファンからは怒られるかもしれないが)設定・キャラなんかはどうでもよくて、遊んでみて、おれゼルダやってる!と分かるようなものに近い。

ゲームによってこの”らしさ”は大きく変動する。ゼルダであればゲームプレイの方に主軸を置いている、ということで、全てのゲームにおいて設定・キャラがどうでも良いということではない。世界観を完コピしたゼルダっぽいゲームが出ても、この”らしさ”をコピー出来ていなければ、ゼルダにはなれない、ということだ。

(例えばスクエニのゲームはシナリオ主導だから、ゲーム性からは「俺今FFやってる~w」とは思わないはずだ。光のクリスタルが出てきたり、ドラクエで序曲が流れる瞬間に、「うわ~ドラクエだ~」となる。吉田がナンバリング外そっかな、とか言ってたのはこれも理由なんじゃないかと思う。ゲーム体験以外で繋がりを付けるのは、一般的にはあんまり意識されにくいと思うし。)

ゼルダらしさは色々な所で語られていたので、それをまとめてみようと思う。実は社内で明文化されていない(今は不明)ので、トワプリのときの「社長が訊く」とか、外部メディアのインタビューは結構宮本さんや社員の方が各々思うものを展開されている。

①お客さんをバカにしてない

お客さんは、ふつうのことはちゃんと全部考えるし、
理不尽なことがあれば、ふつうに怒る。
だから、そういう「ふつうのこと」が
要素としてきちんと収められているのが基本で、
そこが乱れていると、
「これは『ゼルダ』じゃないね」ということになる。
そういうときにぼくは「違う!」と言うわけです。
(中略)
『マリオ』はその場その場で刹那的に対応する楽しさ、
『ゼルダ』は成長していくという大きな気持ちの流れ、
そういうふうな違いがあるだけで、
じつは基本は同じなんですよ。

https://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol5/06.html

急にボコブリンが超絶AIMでリンクのハートを5個削ってきたり、予兆もなく足場が突然落ちてGAME OVERになったり。「しょぼんのアクション」にはなってはいけない、というのは誰もが考えることだろうけど、明文化して、基礎を固めているのは任天堂らしいと思う。

チュートリアルになる部分を機能的に、物凄く作り込んでいるのも、ゼルダの特徴だと思っている。「ふつうの人」が、違和感なくゲームを楽しんでもらう、でも「ふつうの人」は何も出来ない人ではない。1+1=2で、1+2=3です、と言われたら、2+2も出来るのだ。

②プレイヤーが能動的に探索を行う
ゼルダの基本中の基本のことで、以下に喋るゼルダらしさを支える基礎構造となる。
初代「ゼルダの伝説」では、ゲーム開始時にリンクが剣を持っていない。
何故か盾だけ持っているのだけど、このままではキースにすら勝てないし、
どこに行っていいのかも分からない。
ただ、画面の左上に謎の洞窟が用意されていて、

洞穴に入ると
ようやく剣(ノーマルソード)をくれる。

これによって、プレイヤーは「自分で怪しいところを探索しないとまずい」と認識できる。ここがゼルダの伝説の疑似的なチュートリアルとなっている、というわけだ。
というかゼルダはチュートリアルの作り方が異常に上手い。
ウルトラハンド工作の実験台として「全然動けなくってぇ…」のコログを用意したり、カバンダを用意したり。目に見えないところでもいくつかある。

③プレイヤーの思う当たり前をゲームに投影させ、回答を統一する

例えば、風のタクトで、リンクが深夜にボム屋でボムを買うシーンがあったとする。リンクがボム屋に入ってボムを買おうと店員に話しかけると、店員は「いらっしゃい!」と普通に受け答える。これで全く問題ないように思えるものの、この受け答えは宮本氏にはNGとなってしまう。

 リンクがボム屋に入ってきたら、店員が「おまえ子供だろ。ここはボム屋だ。おまえのような子供が夜中に1人で来るところじゃないぞ」と受け答えをする。これが宮本氏の考えるゼルダらしい受け答えとなる。もちろん、これはゲーム進行において全く関係のない部分ではあるが、こういった受け答えにすることで、プレーヤーに、リンクが子供であると再認識させ、リアリティを感じさせることにつながるのだという。

https://game.watch.impress.co.jp/docs/20040325/zelda.htm

プレイヤーの様々な欲求にこたえること、そして応え方の統一ということ。一気に二つも喋ってしまうのだけど、これはセットにすべきだと思う。
例えば、オクタロックが弾を吐いてきたときに、盾でガードするのも解法の一つだけど、プレイヤーは「剣で切る」ことも考えると思う。これに対して剣で切ったときのリアクションを用意する場合、そのとき、弾が跳ね返るのか、弾が横に真っ二つになるのか、切れなくてリンクがたたらを踏むのか、を判断する必要があるのだ。出たアイデアだし折角だから全部実装しよう!とはならないと思う。

というのも、作品には”物語内のリアリティレベルは統一しなければいけない”という暗黙の了解があるからだ。ゲームであっても何であっても、作品には担保すべきリアリティのラインを設定したら、それ以上にもそれ以下にもしてはいけない。
タコの魔物を炎で攻撃したらタコ焼き(食べ物)になる!というアイデアがあるとすると、それは「人喰いの大鷲トリコ」に使えないでしょ、ということ。
どんなアイデアでも、謎解きの仕掛けでも、ゼルダはプレイヤーが思うことを想定し、リアクションを用意し、しかもこのラインを徹底している節がある。

④プレイヤーの感情を常に意識し、届けたいゲーム体験を伝える

例えば、壁にボムを置き、ボムの爆発によって先に進める道が見つかるというシーンがあったとする。このとき、壁にボムを仕掛け、ボムが爆発したタイミングで謎解き正解音を鳴らすと、宮本チェックでNGとなる。ボムが爆発し、煙が収まって先の道が見えた瞬間に謎解き正解音を鳴らすのが宮本氏の考える正解となる。

 ボムが爆発した段階では、ボムの爆発による煙によってどういった変化が起こったのかプレーヤーはわからない。しかし、その段階で謎解き正解音を出すと、なぜ謎解きに正解したのかプレーヤーは把握できない。それに対し、ボムが爆発し、煙が収まった段階で謎解き正解音を鳴らせば、プレーヤーが変化に気づいた段階で謎解きが正解だったことがわかるため、よりリアリティが増すことになる。

https://game.watch.impress.co.jp/docs/20040325/zelda.htm

僕がティアキンを遊んだ時に、「これは親御さんが子供の遊んでいる姿を見ても楽しめるなあ」と思った所だ。

どんな時も、何でこうなってんの?ということがないのだ。祠の謎解きで、ボールを的に当てるものがあるとすると、解けた場合「ボールが的に当たる映像」→「閉まっていた扉が空く」→「ジングルが鳴る」の順にカメラが移動する。当たり前だろ?と思うかもしれないが、謎解きが出来た際に「謎解き出来ましたよ!」とカメラを移動してくれるゲームは案外ない。

①の項でも書いたが、常に、プレイヤーの感情の変化を想定しつつもバカにせず、真摯に向き合う姿勢を忘れてはいけないのだ。

ティアキンの話をします

だから気に入った(ドン)
ここまではブレワイとゼルダの伝説の話で、ここからがティアキンの話。

おまえ じぶんで なんとかしろ

パラセールを入手するまでのティアキンは地獄である。
ブレワイであんだけやった滑空が出来ず、無様に地面に落下し、寒い所に放り出され、凍死落下死を繰り返すチュートリアル。(トオレルーフに気付けば簡単なのだが、パズルにしか使わないと思っていたので、探索においては盲点になりがちである。ここはもっと丁寧にやってほしかった(怒))

ようやくラウル君と和解し、大地に放り出されてからも、予想以上に強い雑魚とえいえいチャンバラをして3の丸に行くまでは相当なウルトラハンド力とリアル頑張りが求められる。バッテリーがないから自動車も乗り物としては使えないし、プレイ体験は最悪の部類だった。(大抵のゲームは序盤を重視するので、これはかなり予想外)ティアキンにおける接ぎ木のゴドリック枠は3の丸だと思う。

その代わり、パラセールを手に入れた直後のハイラル草原は七色に輝いて見えたし、広大な世界に旅立つ原動力にもなった。この、劇薬とも言うべき「不便からの脱出」は、意図してやっていたのだと思うが、少しやりすぎだと思う。本当にプルアを許せない。

なお、この「不便からの脱出」は、後半にもモチベーションを維持するために段々と進めていく必要があり、追加バッテリーやチューリ、ユン坊などはその一部といえる。

本来は賢者との盟約を結んでいくたびに同種の感動を覚えるはずなのだが、賢者システムそのものが不便なので、プラマイゼロに終わっている印象を受ける。これはちょっとどうなの、と思う。

難易度設計

ゼルダは「成長」をベースにしているようで、マリオのように次第に難易度が上がって、それをクリア、征服していくのが面白い!となるわけではないらしい。
顕著なのが、戦闘と謎解きの難易度である。

さて、なぜかゼルダは硬派で、難しいゲームとして有名であるが、ボス戦、とくに戦いのアクションについてはそれほどシビアなものを要求しているわけではない。
アクションゲームで難しいものを作れ!と言われたら、一番手っ取り早いのは敵のスピードを上げることだろう。「内容は変わらないが、受付時間が短くなること」という刹那の見切り的な難易度向上はよくある手段だといえる。ただ、何かしら演出に手を加えなければ絵面の変化に乏しく、プレイヤーは飽きてしまう。
任天堂はこのテンポアップを尊重しつつも、決してそれに頼り切らない姿勢を持っていると思う。高難度アクションの否定であり、頭を使う、もしくはギミックを使ってやれば誰でも、簡単に突破できるようにして、そのギミックに気付けるかどうか、に疑似的な難易度を設けているのだ。

例えば、ビートルやビタロックのような、作品ごとのメインとなる遊び方と、アドリブのギミックの複合はよく使われている。ティアキンではトオレルーフ、モドレコ、ウルトラハンドが、新しく出てくる敵やギミックと常に関連するようになっている。(スクラビルドとブループリントは毛色が違う。身に付けている時間が長いからか、ギミックに対してどうこう、というものではないので除外している)

トオレルーフ、モドレコ、ウルトラハンドを駆使した戦い方が想定されるブロックゴーレム氏。
慣れると物凄く楽しい

ちなみに、このギミックはアイテムを使うなど、有限になっている場合が多い。ノーリスクだと皆それを使うし、使うことが唯一の正解になりかねない。「唯一の正解」が魅力のゲームならそれでいいのだけど、ゼルダはそうじゃない。ギミックを使おうが使わまいが自由で、どちらでも達成感が味わえるのがベストなのだ。
反射神経に頼らない難易度設計は恐ろしくコストが掛かりそうなのだが、やはり任天堂ならではのマンパワーなのだろうか。
マンパワーで思い出した。

昔、宮崎駿さんが『紅の豚』を作ったときに、
お話しさせてもらったことがあるんですけど、
「鳥瞰図の地上絵を
本物らしく見せる方法ってわかりますか?」
って言われて、「なんですか」と聞いたら、
「とにかく描き込むことなんですよ」
とおっしゃるんですね(笑)。
とにかくコツコツコツコツ描き込むことだって。
今回の『ゼルダ』もそれに通じるとこがあって、
ある程度の量を描き込むからこそ
立ちのぼってくるクオリティーというのが
やっぱりあるんですね。

https://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol5/10.html

今回も地上絵があるが、やっぱり相当な描き込みがあった。とにかく手間を掛けて作ってこそ、滲み出るリアリティー、もしくはクオリティというのはあるのだろうなあ。恐るべし、任天堂。

販売面において

なお、売上げという面から見れば、ブレワイ発売からティアキン発売まで6年も掛かっているのはちょっと痛い。売れるゲームの代表格、ポケモンやモンハン、バイオハザードはとにかく発売のスパンが短いのが特徴で、それにより常に話題性を確保しているのだ。1年か2年の間隔でバンバン出せば、買う側も「売れてるんだな」と思うし、格も付くというものだ。

ご家庭にもよるだろうが、小学生のお小遣いで買えるゲームは年に1本か2本が限界で、1本のゲームで半年ぐらいは遊ぶことになる。その貴重なゲーム選びでコケるわけにはいかず、最近出てて売れてそうな奴に手が伸びるのは自然の成り行きだといえる。

ティアキンはその例からは完全に漏れている。ブレワイ当時小学6年生だったユーザーはもう高3で、ゲームをやっている暇がないかもしれない。高1ならもう社会人だ。大学に通っている場合は暇かもしれないけれど。
何にせよ、「前買ったユーザーから買わせる」という点においては、結構後れを取ってしまっていると思う。ただ、任天堂が何も対策していないわけもなく、ゼルダIPを利用したコンテンツはちょくちょく世に出ている。

2019年には『ケイデンス・オブ・ハイラル: クリプト・オブ・ネクロダンサー feat. ゼルダの伝説』が、2020年には『ゼルダ無双 厄災の黙示録』が発売されている。前者は今年の5月に「いっせいトライアル」対象となっており、記憶に残っている方も多いと思われる。
「ゼルダ」本筋でなくとも、リンクさんはレースゲームに大乱闘とマルチタレントを発揮しているので、こうした点では話題性を確保できているといえるだろう。

大事なことなので書くが、「流行るゲーム」と「面白いゲーム」はベクトルが違う。多少の相関はあるが、今時遊べばそこそこ面白いゲームは結構あって、「面白いけど売れてないね」という作品は山ほどある。個人的に、そこらの有名タイトルよりイケてる作品だって当然ある。人さえ来れば売れそうなのに、人が来ないのだ。
そのため、【いかに人を呼ぶか】【いかに呼んだ人を離れさせないか】が、商売面においては鉄則で、コンシューマなら前者の比率が高い。スト6は新規ユーザーの獲得に力を入れていたし。
運営型のゲームはどっちも頑張らないといけない。ブルアカとかプリコネは人を離れさせない仕組みが目立つタイプだ。

話が逸れた。

終わりたくなってきた

そんな感じだ。

ブレワイは”ゼルダらしさ”を丁寧に守ったオープンワールドゲームで、
ティアキンはブレワイのアップグレード版だと思う。「物を作る」という、ブレワイで注目されたユーザーの遊び方を発展させ、その体験をそのまま届けようとした作品であり、それには夥しい努力と時間が掛かっている。

利便性でいえば、ゾナウギアを含め沢山の移動手段(特に上方向)が増えたし、探索をどのくらいで切り上げようか、という基準も、いくらか調整されているように思う。(洞窟ならば「マヨイ」が設けられている)
僕らの想像以上の機能がゲームに備わっているから、”ゼルダらしさ”であげた「プレイヤーの思う当たり前をゲームに投影させ、回答を統一する」ことについても、やはり文句のつけようがない傑作だ。賢者以外は。



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