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昭和の価値観とインフルエンサーの「根性よりも仕組み化」論にみる憲法の価値相対主義

最近は、インフルエンサーの方などの間で、意思の強さや根性に頼るべきではなく仕組み化するべきだ、というのが流行ってますね。

こないだからちょくちょく、Kindleアンリミテッドで懐かしの「魁!!男塾」とか「将太の寿司」を全巻読めることに気づいて、久々にイッキ見したんですけど、まさに「昭和の価値観」という感じで、努力・根性・勝利という感じだった。

江田島塾長の価値観は、「わしが男塾塾長江田島平八である!」に集約されている笑。彼は、宇宙空間から宇宙服と酸素ボンベだけで地球に帰還しても、大気圏で燃え尽きたりしない。だって根性あるから笑。

「将太の寿司」の価値観は、作中にも登場するように、”怨親(おんしん)等しく利すべし”っていう感じ(「怨」は嫌な事や人。「親」は好きな事や人。嫌な事は避けて通りたいものだが、怨も親もどちらも同様に自分にとって為になる)。

男塾の完結が1991.7.22なので、おおむね30年経ってほぼ価値観が逆転したような気がするのだが。

こういう、一見普遍的に思える価値も、30年も経てばこんなに変わるのかーと思うと、結局こういうのもトレンドなのかなという気がしてきて、諸行無常な気分になる(なお、本記事に結論めいたものはないです苦笑)。

ただ、かと思うと「梨泰院(イテウォン)クラス」もわりと「将太の寿司」っぽいというか、けっこう展開が将太の寿司と似ていると思う部分もあったりする。ボスキャラであるチャン・デヒ会長は、将太の寿司でいうと武藤さん的な立ち位置のように思うし。

無理難題・嫌がらせを突きつけられ続けるが、これがダメならこう、これがダメならこう、それでもダメ…それでもこうだ!と粘り強く挑み続け、その過程で成長し(今の言葉でいうとコーチングでいう「グリット」になるのかな)、最後には勝利する、という展開。

どっちも流行ってるし、結局どっちにしたいねん?という気分になる笑。

半沢直樹も、戦略的に打ち手を打ち合うのだが、気合い(=「倍返し」)と根性に満ち満ちている気がするし、「意思の力や根性ではなく仕組み化です」みたいな目で見てたら、「ママ、パパ、この人たちなんでこんなに頑張ってるのー?」みたいになるような気もするのだが(笑)、みんないったい何が好きなんだろう。


憲法の価値相対主義

いきなりタイトルにある憲法の話に飛ぶんですけど。

「唯一絶対の価値はない」という意味でここでは「価値相対主義」というが、憲法はこの価値相対主義の考え方をベースにしている。自分は学生のときに初めて憲法を勉強して、もともと性格もそういう感じだったのと、わりとその理念に共感したところがあって、自分の考え方としては馴染んでいる(ように思っている)。

憲法には、13条に幸福追求権というのがあって、端的にいえば「みんな違ってみんないい」(ただし、他者の権利を踏みにじってはダメ)ということが書かれている。アホみたいな要約の仕方だと思うが、個人的には結局これが全てだと思っている。

日本国憲法
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


人はみな違うし、似た人はいても、同じ人はいない。それぞれに価値があって、それを国家が妨害することは許さないし、この国をそういう風にしていきましょうよ、ということが書かれている(現実にそうなっているわけではないけど、そういうことを謳っているということ)。また、「幸福」を保障しているわけではなく、「幸福を追求すること」を保障しているのもミソである。

人にはそれぞれの幸せがあるので、それぞれがそれを追求して生きていきましょう(ただし、他者の権利を踏みにじってはダメ=「公共の福祉に反しない限り」)、という話。

なので、根性主義でも、ノー根性主義でも、個人が自分にとって心地よいもので生きていけばいい、ということは前提(当然ですけど汗)。

なお、「憲法」とか言い出すとレフト寄りの方々が好みそうな気もするが、自分はそういった右とか左とか、党派的なものとかイデオロギックなものが好きでないので、そういった人たちを支持するようなつもりは1ミリもない。

反権力がいいという価値観も持っておらず、反権力がいいときもあれば、親権力がいいときもあるだろうと思う派。権力もただの装置(道具)で、包丁とかお金とかと同じだと思っている。

包丁を握る人が何に使うか(人を幸せにする料理をつくるのに使うのか、他者を傷つけるために使うのか)、お金を使う人が何のために使うか(半沢直樹の箕部議員みたいに私利私欲のために使うのか、子どもが母の日にカーネーションを買うためにお金を使うのか)によるだけで、道具やお金に色はついておらず、使う人間の色が投影されるだけである、と思う。

ただ、ひとつ権力がお金や包丁と違うのは、長い間持ち続けたときに正気を保てる人間はほぼいない、ということ(歴史的にみて)。


話を戻すと

話が逸れたし結論もないんですけど、結局、みんな努力とか根性、好きなの嫌いなの?どっちなの?という気がする笑。

まあそれこそ、価値相対主義というなら、こういう白黒のオールオアナッシングじゃなくて、グラデーションがあって、みんな好きなようにすればいいし、現にそうしてるだけだろうと思いますけど。

ただ、流行りとして大きく見たときには、一定の方向性があってもいい気がするけど、それが支離滅裂になっているような印象も受ける。

個人的には、昭和の根性主義が一定程度修正されていくプロセスにいて、結局、根性も仕組みもどっちも大事だよね、となってチャンチャン、ってなっていく気がする。

実際、「根性よりも仕組み」というメッセージを発しているインフルエンサーの方って、ヒストリーを聞くと、ほぼ全員「イヤそれめっちゃ根性あるやん」(そういう時期を経ている)という感じがするし笑。ご本人たちは根性や努力だと思っていないのかもしれない。目線が高いとか、夢中でやってるから、という理由で。

あるいは、昭和の気合や根性は、本人に「好き」とか「こうしたい」という気持ちがあるときにはいいのだろうが(イテウォンとか将太の寿司みたいに)、「とにかく一流になれ」「根性を出せ」みたいな感じで、本人不在のまま圧力的に作用した場合は悪弊が強いことがわかってきた、という感じなのかな。

人生を息苦しくするだけというか。いい大学いっていい会社入って…という漠然とした一流幻想みたいなもの(本人不在の)。それが修正されてきてるのかも。

つまり、気合いとか根性は、実は今でも好きな人がけっこう多いのだけど、

● 夢中になってる人は、努力と思ってない場合もある
● そうでない多くの人にとって、あるいは夢中になってる人ですら、現実には意思の力は有限(折れる)なので仕組みが重要
=むだづかいダメ。「がんばる」はソリューションではない(byもとGoogleのピョートルさん)。省いた分は成果の高い分野に投入すべし。
● がんばらないで生きたい人やスローで穏やかに生きたい人には、圧力でしかなく、押しつけるべきではない

みたいな感じなのかな。

そう思ったら、別に矛盾してないというか、むしろ昭和からきてだんだんとスマートになってきてるのかも。

単純にいえば、根性も大事だけど、実際には方法論も要るよね(ただ頑張ればいいってもんじゃない)とか、そもそも外圧的に猫も杓子も根性出せ、一流になれ、って言うのは間違ってるよね、みたいな。

わかってても実際にはそうできてなかった、というか(昭和の途中からそうなって、日本停滞&息苦しく、なった)。

結び

自分でも何言ってるかだんだんわからなくなってきたので笑、このへんで終わりにします。

インフルエンサーの方々の「努力や根性より仕組み化」というハックを聞いて、なるほどーと思いつつ(自分も以前の方が気力あったなと)、懐かしの「男塾」とか「将太の寿司」とかをイッキ見したりもしていたので、これはこれでオモロイなとか、それにしても30年も経てば価値観って変わるもんだなー、と思ったので、記事にしてみました。


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