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(5)医心方 巻二十七 養生篇 用氣第四 鳳凰堂流解釈


劉君安の話

劉君安は≪三洞珠嚢・相好品≫の中で、

≪神仙伝≫第七に書かれている「劉根は字君安、京兆長安の出身」と

≪後漢書・方術列伝下≫に書かれている「劉根なるもの穎川出身で嵩山に隠居し、良く霊を観ることができた」では記載内容が異なります。

また≪養性延命録≫に記載されている≪云笈七筌≫には

「劉君安は劉安の事であり、劉安は≪淮南子≫、≪淮南万卒術≫を主編した西漢(前漢)の淮南王であり、神仙である劉根と方士である劉根は異なる」と書かれています。

鳳凰堂は、恐らく魏晋南北朝の人が劉君安の名を借りて書かれたものと考えています。

人は生命を食べ、死んだものを吐くことで長く生きている。

つまり鼻から入れる気は生であり、口から吐く気は死。

人が正しく服氣できていなくても、朝から晩まで意識して修練していれば、修養し成長する事ができる。

また、常に鼻から入れ、口から吐きなさい。

古いものを吐いて、新しいものを治める。吐故納新である。

現代(当時)の人は良く鼻で笙(しょう、現代(今)では横笛と言うと分かりやすい)を吹き、鼻で飲酒することができる人がいる。

修練を行えば、鼻は口と同じような事ができる。

今口から息を吐き、鼻から息を入れるのは、鼻で笙を吹き、鼻で飲む事よりも簡単な事ではある。

ただ、人が良く習わず、習っても長期間練習して習慣化していないというだけでる。

鳳凰堂は鼻で笛を吹いたりはできませんし、しません。

ここで言いたいのは古い気(濁氣)を吐く時は口から吐き、新しい気(清気)を吸う際には鼻から吸う事。

これだけで生きて行けたら仙人ですが、呼吸の場合は基本はこのように行い、現代ではそれがスタンダードになっています。少し意識すれば誰でもできますが、意識していないとできていない場合もあります。

清気を吸っている、濁氣を吐いているという事を意識することは大切です。

口と鼻の使い方は流派や方法によって違いますので全てにおいて練習と習慣化が必要ですがそこまで重要な事ではないと考えています。

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