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転載(10)

老子道徳経第十

能為という副題がついています。
 
能為は無為と対になっています。

それを自我と無我と言う形で解釈してみました。

心と身体を一体とし、この太極から離れないようにしたい。
 
氣だけを意識して柔軟に物事を考える事ができ、しかも無心となれる嬰児のような心を持ちたい。
 
雑念を払い、過ちなく進めるようになりたい。
 
人を愛し、国のような大きな規模でも治められるようになる為に無為の精神を持ちたい。
 
自然が変化する中で、女性のような柔軟さを保ちたい。
 
四方の全てに精通しながら、何も知らないような風体でいたい。
 
道は万物を生む。これをエネルギーとして溜め込み、成長しても自分だけのものにせず、万物を動かしながら頼りにはせず、頭ごなしに支配するような事はしない。
 
このような状況を玄徳と呼んでいる。
 
不確かなものも踏まえた上での徳の源流について説明していると同時に、天一生水(天は始めに水を生む)後、水火木金土という先天五行から、木火土金水という後天五行へと移り変わる姿を目に浮かばせます。

天門が開闢するという事は、乾坤が動き出すと言う事。乾坤が動き出す事で坤が軸となり、四隅へ達する事。四隅へ達するためには、中宮という自我が必要。
 
その自我を中心に乾坤を動かし、最後はその自我をどれだけ棄てられるかという観念が必要。
 
この世に生まれてくると、エネルギーを蓄積し、発育、発達に使っていくが、それは最終的には自分の為ではなく人の為。その為に先ずは自分の成長に使う。
 
人の上に立っても人の為に動く。これを玄妙な徳の理として、乾坤から坎離へ、五行から八卦への移り変わりを表現しているのではないかと考えています。
 
【直訳】營魄を載せ、一を抱き、よく離るることなからん。氣を専らにし柔に致し、よく嬰児たらん。玄覧を滌除し、よく疵なからん。民を愛し国を治め、よく無為ならん。天門開闔し、よく雌たらん。明白四達して、よく無知ならん。
これを生じ、これを畜う。生じて有せず、なして恃まず、長じて宰せず。これを玄徳と謂う。
 
 
【原文】載營魄抱一、能無離。専氣致柔、能嬰児。滌除玄覧、能無疵。愛民治国、能無為。天門開闢、能為雌。明白四達、能無知。生之、畜之。生而不有、為而不恃、長而不宰。是謂玄徳。

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