中年ひとり。
お金のことで、しんどい・怖い・苦しい・惨めな想いを、 何度も何度も繰り返すうちに、もうすっかりオジサンになってしまいました。 もはや、自分にとって「お金」とは、 ”考えたくもないもの” ”もう縁がないもの” ”恐ろしいもの” になってしまいました。 この「惨状」から、抜け出せる気は、 まだ、あんまりしないし、 「光」も見えないのですが、 ”このまま”でいたいわけでは、もちろんない… とりあえず、 何かしよう、 何かしなくては… そう思いながら、 井戸の底で、絶望しかけて、 それでも時々、天を見上げ、 這いずり回っているオジサンの備忘録です。
「借金があってお金に困ってる」「けど」「そこそこ楽しい明るい生活」をしつつ、日々の楽しさから心身の余裕を得て、コツコツ返済して行った先に経済的な豊かさがあるといいなあと思うけど、どうなんだろう。まだ具体的にイメージできないけど、自分とお金と幸せについての発想の転換がいる気がする。
「借金があってお金に困ってる」「から」「完済まで歯を食いしばって頑張り抜く生活」が破綻しかけてる。心身の不調がすごい。出勤も這うようにして行ってる。今の自分を許し、楽しむのは「逃げ」で、経済的な豊かさを諦めることだ、と思ってたけど、そもそも経済的な豊かさは楽しい人生のためのはず。
「借金があってお金に困ってる」「けど」「そこそこ楽しい明るい生活」は、ありえるはず。でも、そんなことを自分で言うのは「逃げ」だと思ってた。確かにそう言う側面もあるかもだけど、「逃げ」だという発想で頑張ったけど、今うまくいってないのだから、少し肩の力を抜いた方がうまくいくのでは?
本来は、現状の「経済状態」と自分の人格的評価はそれぞれ別のもののはず。なので借金抱えていることが、そのままダメ人間という評価にはならないし、何もできないということにもならない。そこの発想の転換がうまくできていけば、今、毎月返済していることをもう少し肯定して加速できる気もする。
昨日のつぶやき後ずっと考えてたけど、どうも自分は「経済状態」という一つの指標を重んじすぎて「人格的評価」と混同してたのかも。なので自分に対する「借金がある奴はクズ」という評価になり、「クズだから何もできない」という思い込みになり、結果、お金に向き合えず完済できず、今に至る…のか?
「自分は『まともな人間』でない」「『まともな人間』扱いされなくても、自分が悪いから仕方がない」と自分で自分に言い続けるのは、けっこうつらく苦しい。でもそれも、仕方ないこと、と思ってきた。けど、「借金がある」ことと「人間としての価値」はひょっとしたら違うことかも?とふと思った。
「借金がある、ということは、人間としてダメなこと」だから、「借金を返し終わるまでは、『まともな人間』として扱われなくても仕方がない」。「だから、早く借金を返して、『まともな人間』にならねばならない」と、ずっと思ってた。自分が『まともな人間』ではないと、自分自身でずっと思ってた。
台風への備えをしつつ続きを考えた。お金について考えるというのは、経済状態の改善につながらないと意味がないはず。そのために、まずは、何が自分に起こっているのかメカニズムを観察し言語化することが必要なはず。でも恐怖のあまり「なぜこうなった」を先に決めつけ思考停止に陥ってたなあ。
移動中、昨日のつぶやきの続きを考えた。「なぜお金に困ってるか」を考えてない。だから困ったまま、ということについて。全く考えてないわけじゃない。でも、それは、大雑把で、わかりやすい結論に飛びつくもので、ネガティブな感情にどっぷり浸かって、同じことをぐるぐる心で唱え続けるだけだった。
相変わらずお金に困ってる。しんどいし、苦しい。しんどいながら、苦しみながら、なんとか頑張って働いているし生きているつもり。なのに、なぜ相変わらずお金に困ってるのだろう。月末の支払いを計算しながら、そう思った。で、気づいた。「なぜお金に困っているのか」をじっくり考えてないからだと。
青い空と白い雲を見上げて思う。「自分には何もない」から「人生がうまくいかず先が見えない」とずっと信じ込んできたけど、多分違うなと。「自分にはけっこういろいろある」けど、それを自分以外のもののために、言われるまま使ってきたから「人生がうまくいかず先が見えない」のではないかと。
今日も朝から暑いなあ(>_<)相変わらず督促が怖いなあ(;_;)こんな歳になるのに人生うまくいかないなあ(T ^ T) …ただ、そう言いつつ、生きることができている。そのことに「感謝」…できるほどはまだ人間ができてないけど、でも、かなり幸運だとは思う。目の前のことをやっていこう。
とりあえず、放置していた洗い物を一気に片付ける。間違って、洗剤を原液のまま使ってしまい、左手の指の付け根あたりがピリピリする(>_<)
今の自分が「かつて、こうなったら幸せになるはず」と思ってた姿とあまりにも違うばかりか、「絶対にこうはなりたくない」という姿にあまりに似ていて呆然とする。もちろん、そのかつての思いが「思い込み」「刷り込み」であったことにも気づいているが、なら、本当の自分にとっての幸せとはなんだろう
先日、数少ない友人と話してて、ふと思ったことがある。これまで、「失ったものを取り戻さないと」「あのとき目指したものを得ないと」と思いすぎて、それができてない自分を責めて生きているけど、逆に、もっと、手放していってもいいのかも。モノも仕事も、人間関係も、「夢」も、「べき」も。
気がつくと、今日も、もう終わり。休日も、もう終わり。多分、気がつけば、今月ももう終わるだろうし、夏ももう終わるだろうし、今年も、今年度も、同様にもう終わるだろう。で、このままいけば、人生も同じように、「もう」終わってしまうのだろう。そうなりたくはないけど、どうしたらいいんだろう。