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長いものには巻かれろってのは間違っている。長いものには巻かれてしまうのだ、無意識的に。

長いものには巻かれろというのは正しいのだろう。ただし、長いものが悪い人じゃない場合限定だ。権力を持った善人からの寵愛を受けるのならば、その人には幸福が訪れるだろう。それはほぼほぼ確かだ。しかしながら人間ってのは流されやすい生き物のようで、権力を持ち、皆が自分のご機嫌を伺い、なんでも自分の言う事を聞き、別に年上でも頭が良い訳でもないのに「先生」なんて呼ばれてしまうと、人は調子に乗る。自分が偉いのだと自覚し、今までは許されなかった事が許されるようになってくれば、心のタガが緩む。気持ちが緩んで失礼な事をしても、周りはそれを許すし、もっと言えば「いじってもらった」なんて風に好意的に受け止められる事もある。そうなれば、加害行為でも自分がやれば愛情表現になると勘違いし、ますます調子に乗る。権力を持てば持つほどに許される範囲は広がり、悪政を振るう程に暴君としての裏の知名度が上がり、余計に恐れられる。告発と報道が恫喝や忖度により封じられると、これは膨張し続け、個人が最大限可能な横暴さを発揮するようになってくる。その人が権力を発揮し続ける限り、もしくは新しい告発機関が誕生したりしないと、この状態はなくならないのだ。権力者が流されやすい生き物であるのと同時に、権力者じゃない人間だって流されやすい。「あの人のやることだから仕方がない」とか「あの人は神様だから」とか、そういった風な諦念を持って、論理の枠から除外して、それ以外の叩けそうな人間を見つけて、そいつを叩いて自分が合理的な人間であること、自分に正義が宿っている事を思い込ませようとする。長いものには巻かれろなんて助言がなくとも、人は無意識的に長いものには巻かれるのである。そして、時代の流れによって、権力者が没落していく最中にやっと、皆で寄ってたかってボコボコにする。それは正義なんて言葉では形容できない。ただの欲望に忠実な動物の群れの生態である。下手に言語能力が高くなってしまったから自覚が難しいけれど、やはり人間は動物であり、弱肉強食の原則が遺伝子レベルで刻まれているのだ。だから自分よりも強い人間には逆らわない理由を捻り出すし、その逆なら逆の事をする。綺麗事を紡ぎ出す能力と、動物的な行為をあまり必要とされない生活によって、自分があたかも動物とは一線を画した存在であると勘違いする日もあるだろうが、やはりどうしようもなく人間は動物であると自覚した方が精神衛生上よろしいように思う。でないと、自分の思想と行動のすれ違いにいつか葛藤を覚えて、それがストレスになり、心が歪んでいくだろう。無理なものは無理、できる時にやる、死にそうなら逃げる、逃げて回復したならまた立ち上がる。この発想を無視し、誰かの綺麗事を第一優先にして生きる事は素晴らしいとは思うけれど、机上の空論で空は飛べない。妥協点を見つけるのもまた人生である。

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