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少年心は捨てきれない

ロマンが欲しい。やはり少年心というものは捨てきれないもので、修行とか特殊能力とか言われると、ワクワクしてしまうものがある。無茶に見えれば見えるほど、そこに何か特別な意味があるように錯覚してしまう。漫画の世界ならばトンデモ理論によって内なる力が覚醒したりするのだが、現実では残念ながらそんな事は起こらない。それでも何か一つの分野に打ち込んだ人間の輝きが素晴らしいのは現実でも同じだ。スポーツ選手、アスリート、音楽家、漫談家、それぞれの分野を極めた人間が放つ輝きは人々を魅了する。無茶な事をしても意味はないけれど、それでも確かな方法を継続していけば現実にだってロマンはある。夢がない人生が灰色であるならば、少し歪でもいいから何かに専念すべきなのかもしれない。何事もそつなくこなす器用貧乏は役に立つけれど憧れることはないだろう。憧れられる人は何かが突出している人だ。憧れられれば他の欠点は輝きによって無視される。むしろ、見えない部分すらも見えないからこそ素晴らしい何かを秘めているのではないかと期待される。逆に、どこを見てもそれなりのレベルを持っている人間は全てが見えてしまっているから想像の余地も憧れる部分もないから、想像力を発揮される部分がない。やはり人は多少偏ってもいいから一つに掛けた方が良いのだろうなぁと思う。だが無難に平和に暮らすのならばオールラウンドに能力を鍛えるのが良いだろう。それならばどこかしらで働く場所はあるから食うに困る事はないだろう。何かに突出している人間は時代に上手くハマれば光り輝くけれど、何にもハマる所がなければ落伍者である。世間から唾棄される存在になる。飯はロクに食えず、他人から軽蔑され、自分の突出した才能が輝く事なく死んでいく。本人にはその才能が分かっているからこそ辛いかもしれない。要は才能を突出させるってのも一つのギャンブルなのである。全財産を叩いて一つの才能に賭けて大勝するのか大敗するのか。それは儚いけれど確かにロマンである。生まれて生きて何一つ勝負しないで何が人生か。ゴミのように死んでもゴミのように生きるよりかはマシだろう。別に全財産を賭ける程の博打をせずとも、人生の三分の一くらいは何かロマンのようなものに身を委ねてもいいと思う。失敗は嫌だが振り返った時に何もないのも嫌だ。ただ仕事をして家に帰ってダラダラ遊ぶだけで人生に充足感が得られる人間ならばそれは良いのだが、大概の人間がそれを口では望みながらも心の中では望んでいない。生活保護が許されている日本において、これだけ働いている人間がたくさんいるのがその証明になっているように思う。モヤモヤしている気持ちを抱えているくらいならば、何かしらで勝負を仕掛けてみるのも一興である。

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