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悪ノリを共有できる友人こそ、たまには「ちゃんと言葉にしてコミュニケーション」を取るのが大事な理由

悪ノリは楽しいのだけれど、悪いノリを理解できない人にとっては不快だ。

言葉にはしていない事柄の大半を共有できると、人間関係は丸く収まりやすい。言わなければ分からないのは当然の事なのだから、自分にとっての当たり前を何から何まで言語化して伝えなければいけないというのは面倒臭いのである。

仕事においては、そういう面倒事も乗り越えていかなければいけないのだが、友達との遊びにおいて面倒事ばかりでは面白くない。さらには、心を許しあった仲だからこそ可能になるふざけたノリを共有できないのも面白くない。

友人ならば、一般社会では超えられないラインも少しくらい超えたいと思うのは当然だろう。

だこの悪ノリ、ふざけたノリ、こういう事柄は上手にコミュニケーションが取れているのならば本当に楽しい思い出になるのだが、こういう事柄を通して実はあんまり常識を共有できていない事に気づくきっかけにもなってしまう。

皆が盛り上がっていて、一種の愛情表現として誰かが誰かに対して多少過激な行為をする。受け手はそれをあんまり好ましく思わずに激怒してしまうようなシーンは今迄、誰にでもいくらかあったのではないだろうか?

心許し会える友は大事だが、それでも礼儀は重要だとそこで学ぶ。それと同時に、完全に心を許せる人間ってのは、そうそういない事も理解してしまう。人が大人になっていく瞬間であり、人生が少し窮屈になってしまう瞬間である。

自分の常識が世間の常識と一致しない息苦しさを体験していく事も大人になるって事なのかもしれない。だから社会人は面倒が多いのだ。

言わなければ人と人は理解し合えないけれど、一々全てを言い合うのは疲れるし、一々全てを話し合わなければいけないような人間同士はそもそも常識が合わないから仲良くなれない。

この人とは話し合っても無駄だという感覚は話さずとも何となく分かってしまうように私は感じる。そんな人とも社会生活では話さなくてはならないからこそ、話さなくても理解し合える友が重要なのである。

気遣いばかりで心が疲れた時こそ、心を許せる友が必要になり、心が緩んだからこそ悪ノリが発生してしまい、友はそれを許せず激怒し、心を許し合うにも面倒事がまた一つ増える。

そうはならないように、常日頃から、面倒かもしれないがが薬として「自分にとっては常識だけども言葉にしてちゃんとコミュニケーションを取る」という行為を少しずつ行っていくことは大事なのだと、染み染み思う。

でないと、大人になってから友人が増える機会は子供の時よりは大概は少ないのだから、ジリ貧になってしまう。

大事な人には乱雑になってしまいがちだが、大事な人だからこそ大事にするのが大事なのだろう。


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