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20年ぐらい創作を書き続けて、それを切り離した


中学の時から小説を書き始めて、なんのかんのでアラフォーである。基本的には二次創作だったが時々一次創作も書いていた。同人誌はほとんど売れず、自分の話は金を払ってでも読みたい話ではないのだというコンプレックスがあったが、今なら二次創作で自分の価値を判断するのは烏滸がましいのでは?と思う。それは本編の作者のものだからだ。

病気で自立もできず家業を手伝って、実家でくらしているから、創作以外、というかオタクであること以外、自分に価値がないように思っていた。自己実現の一種で、承認欲求もあるにしろ、どちらかというと、これがなければ自分は生きている意味がない、といった焦りや不満や怒りだった。感想をもらっても評価されても、たいした意味には思えなかった、書けば書くほど空虚になるような、飢えていくようなかんじだった。

そんなある時、人間関係でやらかして縁を切られてしまった。自分の価値を相手に求めていたから当然だった。
心が折られて鬱屈していたから気分転換に資格を取ろうと思った。
私は根っからの文系だったから、数字が苦手だったが計算が必要な資格で、数学の初歩の本を読みながら、講座に通い、なんとか資格が取れた。その復習にアプリを使っていたが、問題を解きながら別の端末でソシャゲを周回していた。ガチャ中毒だった。

試験を受けた後、ソシャゲの周回が苦痛になった。試験前の鬱屈を思い出すからでなにも楽しくなくなった。5.6つほど掛け持ちしていたソシャゲを手放した。
ソシャゲを手放すと暇ができた。
しばらく戸惑う内、Twitterをしている自分が嫌になった。十年ぐらいつづけていたTwitterもやめた。
その次は甘いものをやめた。
物心ついたときからずっと好きだと思っていた甘いものはただの習慣で、毎日食べる必要がなかったと気づいた。

そして、創作をやめた。
自分にはこれしかないと思っていたけど、創作をしていて楽しかったが幸福になったことはなかった。
それに気づいて、距離を置いた。

なんてことなかった。
暮らせた。
なにも書かなくてもオタクだったし、消費するのは楽しかった。

思い付いてすぐ書かなきゃ!と書き出す必要はどこにもなかった。
長い間、勘違いしていた。

好きであることや楽しいこと、その心でいることは必要なことではなく、それはふつうの状態ではなく、特に望んだものでもなかった。

心ががらんとして、いつも自分は退屈と暇と戦っていたが、必要なのはこの、空虚さだったのだとようやく気づいた。

がらんとした心は心地よい。

完全に創作をやめたわけでもないし、プレイをはじめたソシャゲもある。
でも、もういつでも切り離せるし、自分をなげうつ必要はない。
書くことは自分の好きなものへの奉仕だったし、責務だった。
書かなければ自分ではなかった。
でも、自分はずっと自分だった。 

前に改めて一次創作を書き出したとき、自分の好きだったものが、見てきたものが感じてきたことがぎゅっと手元にあることを実感した。ずっと好きなものは心にあるのだと分かった。嬉しかったし面白かった。自分は自分の好きなもので出来ているのだ。

ずっとなにかになりたかった。
なにか自分だと証明できるものが欲しかった。
でもそんなものなくても、別にいいのだろう。

長い、長い思春期だった。
やっと、大人になれた気がした。

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