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#78「選ばれなかった側」に立つということ

ライターの仕事をしていると、当然ながら月によって売り上げがバラつきます。

締め切りに追われて必死で案件をこなし、気がついたら月末を迎えている月と、思うように仕事が取れなくて、営業活動やテストライティングに時間を取られてしまう月。

目に見える形での売り上げが多いのは、当然前者のほうです。多くの量の仕事が与えられ、しかもそれらをサクサクとこなすことができているからです。

一方で後者のほうは、案件を探し、意を決して申込み、必死に応募文やアピールする内容を練り上げ、冷や汗を流しながら面接やテストライティングに臨むものの、なかなか結果がついてこない。

この両者は、ともに同じように努力はしています。しかし、残酷にも、「金額」としてついてくる結果は全く違うのです。前者は安定して◎万円という金額をいただけるのに対して、後者は下手をするとまったく売上につながらない可能性もあるからです。

だから、売上げベースという「結果」だけをみると、前者は「とてもよく働いた月」になるし、後者は「全然働いていない月」になってしまいます。

しかし、感情ベースで考えてみると、前者はとにかく目の間にあることに無心で取り組むだけで結果がついてくる状態。作業におけるしんどさはあるものの、自分はクライアントに必要とされているという満足感や、やりきったという達成感、自分はこれだけの金額を稼げるんだという自己肯定感も高まるでしょう。

一方で後者は、いろいろ努力をしたにもかかわらず、結果がついてこないという焦燥感や、人に必要とされていないという無力感。さらには自分の今後に対する不安感や絶望感など、とにかくさまざまなマイナス感にとらわれてしまう、つらい状態です。

しかし、前者のような成功体験しかしたことがない人の目には、後者のような人は単なる「怠け者」に移ります。

それをよく表した次のような話があります。

『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

聖書 マタイによる福音書 20:12

ある農場の主人が、自分のぶどう園で働く人を探していました。
そして、夜明け、9時、12時、15時、17時のそれぞれの時間帯に広場に行き、そこで出会った人たちを日当約1万円の契約を結んだうえで雇用しました。

そして1日が終わり、給料の支払いが始まりました。すると主人は夕方=17時から働き出した人にも15時、12時、9時から働き出した人にも同じだけの金額である1万円を支払ったのです。

それを見て、一番早く夜明けから働いていた労働者は自分はもっとたくさん賃金がもらえると思っていました。しかし、実際にもらえたのはみんなと同じ1万円だったのです。労働者は思わず主人に不満をぶつけます。

主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

聖書 マタイによる福音書 20:13.14

主人のこの発言は、時給の概念からすれば無茶苦茶ともいえるものです。1時間しか働いていない人と、12時間近く働いた人の賃金が同じなのですから。

でも、主人の目線は違いました。主人は、夕方5時ごろに雇われた人が、それまでどんな思いで一日を過ごしてきたかをよく分かっていたのです。

だれも自分を必要としてくれる人がいないまま、何もしないで一日が終わろうとしている不安やあせり。自己嫌悪にまみれながら、それでもただ待っているしかなかった人の苦しさや寂しさ。

案件が獲得できないまま終わってしまった一日や、イヤイヤ期の子どもの相手をしているだけで過ぎてしまった一日。心身の調子が悪くて最低限の家事すらまともにできなかった一日や、夜間の家族介護で疲れ切り、起き上がることすらできなかった一日。

金額ベースだけみるとゼロ円だったり、マイナスですらあるようなそんな一日。しかし主人は「この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と言ってくださいます。誰ひとり認めようとしなかった、そんな今日、一日の苦労や苦しみや価値を分かったうえで、評価してくださっているのです。

もちろん、仕事はうまくいってほしいし、比較的楽に稼げるような案件があれば、ぜひともほしいと思います(切実)。でも、うまくいかない体験があるからこそ、そんな自分でも受け入れて下さる方の存在に気付くことができるのかもしれません。




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