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会うことの無い恩人

背中に痛みを受けた次の瞬間、私は光に吸い込まれるように見知らぬ場所に居た。
そして目の前に居たのは、黒くゆれる影だった。
それは細く伸びながら、やがて男を象った人の形になる。
「私はどこに行けばいいか、知っていますか」
影は腕を伸ばして指さした。
遠い遠い場所を。
「…妻と息子をおいて行けと?」
何も言わなかった。
その瞬間涙が溢れた。
出来るわけ無いだろう。
愛する家族を。
家で待ってくれている妻を。
幼い息子を。
愛する家族をおいて、どこに行けというのだ。
影はじっと見ている。
何も答えない。
飛びかかって胸ぐらをつかむ。
しかし手に感触は無く。
あれだけ覚悟は出来ているなどと言いながら、
実際にはこのざまだ。
「私は二人を置いていくことは出来ない」
影の前で座り込んで重い口を開く。
「…でも、どうしても無理だというのなら」
影の目を見つめる。その顔は、見覚えがあった。
「どうか、あの子を守ってくれないか…?」


それは藁にもすがる思いだった。
変なことを言っている自覚はあったが、否定しないでくれ。
貴方はあの子のことを知っている気がしたから。
あの子はまだ6歳だ。
大人になっていない子を一人にさせるなんて出来ないから。
影は何も言わない。
しかし突如身体が細く伸びたかと思うと、みるみるうちに姿を変え
それは黒山羊になった。
そのまま、黒山羊は私が来た道を走って消えていった。
「…ありがとう」
そのつぶやきが届くことはなかった。

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