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iPadの「不自由さ」に少しだけ悶絶する〜電源とコンセントのナゾな関係〜

我が家にはパソコンがない。代りに、iPadがある。そのアイパッドについて。……いま我が家と言ったけれど、うちには連れ合いがいて、個別のスマホは持っているが、単純に画面が大きくて便利なので、二人して動画サイトなどを観たり、こうしてnoteに投稿したり、と、iPadは大活躍中だ。下手をするとだからヘンな音が出そうなくらい使い回している。ウルトラ式になんでも保管してくれる冷蔵庫みたいだ、と思う時もある。

でも、そうやって重宝しているなかで、はて、なんでこーなるのだ? と首をかしげる時がある。充電の時だ。コンセントに接続し、本体のなんとか云うジャックに先端を差し込んで、さあ、と画面に向き合う。すると。

白いコードが、窮屈そうに画面を、横切る。……付属のコードは1メートルくらいで、我が家の場合はコンセントの関係上、延長タップを使わないといけなくなって、まあそこは説明しないけれど要するにiPadをカバーで自律式に、立てて、使おうとセッティングすると。

電源コードが、邪魔に、なるのだ。すごく気持ちがよくない感じ、語弊のある言い方だがヘソの緒を巻き付けて窮屈そうにしてる胎児、みたいな違和感、に直面する。(また説明になるので一枚、撮ってみる)

カバーで立てる都合上、こうなる。

これって、いかがなものだろう。……うまくは言えないが「生産し流通させて利用させる側」からの「お仕着せ」みたいなものに、まんまと乗せられているってことじゃ、なかろうか。いやもっと言うと、そういうお仕着せな環境に置かれることに、すっかりハマって、あろうことか自ら気分よく踊ってしまっている?

そういう、バツの悪さみたいなものを、わたしなら味わってしまうのだ。……思い起こせば昭和の時代には、学習机というのがあり、いまでもあるのかはさておき、あの机には確かコンセントが机の奥、本立てのあたりだったかに作り付けられていて、なんだか、よーし、ちゃんと学習するんだ、ベンキョーして偉くなるんだ! みたいな、そこはかとない呪いのようなものがあったと記憶しているけれど。

そんな古臭いイメージさえ、この窮屈な状況からは、立ち上がってくるようで。

もう少し、自由になれないのかな、という結論に達してしまうのだ。……要するにiPad用カバーで本体を自立させ、なおかつ電源に接続して使う時でも。

コンセントの位置を気にしないで使う、そんな自由が、欲しいなあということなのだった。(無線型の充電装置があれば一発で解決することかも知れないし、実際にあるのかもわからない。が、ここではそれは、無視)

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