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劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデンのこと、あるいはヴァイオレットはいます

この記事には「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のネタバレが含まれます。未視聴の方はただちにブラウザを閉じ、ビデオ屋に走ってテレビシリーズと、外伝を見てから、映画館で明日の一番早い回を予約しろ。














書きます。もう、以下はみんな見た人しか読んでない想定だ。

こういう文章をあまり書いてこなかったので、理路整然には遠い。狂った様子を見ていけ。あと、台詞とかレイアウトについての言及は記憶に基づいてなので多少違うかもしれない。雰囲気で、あぁ、あれねとかわかってくれ。

「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」公開から二週間経つのでもうよかろうということで感想を書く。なんか興行もなかなか良いようですね。べねべね

公開初日と昨日改めてで二回見た。当然二回とも面白かったですね。

なにが面白かったのだろう。

最初に見たときはもう開始五分(テレビシリーズ10話のリフレイン)で泣き始めていた。テレビで見たときもあそこは泣いたし、これからも泣くと思う。

まったくの余談だけど、あの10話はとても良いエピソードなのですよ。

というのは1話から9話までで人形のように感情のわからなかったヴァイオレットが、他人の感情を代筆することで感情を学習していき、その結果、自分の兵士としての過去の意味を実感する。そして、その上でドールとして積み上げてきた自身の「してきたこと」によって救われる。

というのが、9話のエンディングなんですよ。あの演出もいいよなー。

で、そこからの10話。屋敷に訪ねてきたヴァイオレットを見て少女は「お人形さんが来た」と言う。そんで、仕事をしている間のヴァイオレットはまるっきりお人形みたいに淡々と振る舞う。女の子と遊ぶ時のとぼけっぷりは素だった気がするけど。

んが、10話のエンディングでヴァイオレットは泣き崩れる。つまり、悲しいとかの感情を得ていて、それを堪えていたということがわかるのです。少女に自分の仕事を悟られないようにするという気遣いもできるようになっている。ヴァイオレットえらい。

さて、劇場版はコツコツという足音と道の画で始まる。

歩いている人間は見えない。

道の先に屋敷が見える。おや? あのガラス張りの庭はどこかで見たことがないか?

窓から外を見るのは見知らぬ女性。祖母の葬式の帰り、両親とともに祖母の家を訪ねたらしい。どうやら両親とはうまくいっていない様子。

このあたりのシークエンスも素敵で、ラジオとかスイッチ式の電灯とかがさりげなくピント描写されて、「アニメとか外伝からはだいぶ時間がたっていますよ」というのを示してくれる。

女性は手紙の入った箱を見つける両親によるとそれは曾祖母の死後、毎年祖母に届いていた手紙だという。どこかで聞いた話だな?

はい、10話のあの少女の娘のそのまた娘でした。

というAパートというんですかね、導入です。長いな。このテンポでやってたらエヴァの劇場版が公開されてしまう。

でも、この導入がよいのですよね。物語の教科書のように最初にテーマが示されます。

・裏腹の言葉

・家族

・手紙の意義

手紙の意義については、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」という物語全体で語られ続けているので、他のことについて話せば出てくるでしょう。

裏腹の言葉と家族はユリス少年の話とディートフリード大佐の話で繰り返し出てきますね。

大佐の言葉が裏腹なのは今回特に強調されていましたね。ヴァイオレットにリボンを届けに来た以降の会話、憎まれ口を叩けば叩くほど、面白くなってしまっていました。初めて見たとき割と真面目な場面なのに笑ってしまった。真面目に見ると戦争が終わっても軍人として強がる姿勢以外を知らないということですね。

でも、このへんはちゃんと笑えるように作ってあった気がする。ユリス少年との最初の会話とか、やたら気合の入った社長とベネディクトのテニスシーンとかいったん緩めるパートなのかなと思った。

閑話休題、家族ね、家族。そういうわけでこの物語に三つの家族が出てくるわけだ。ベンジーの家族、ユリスの家族、ブーゲンビリア家。どの家族も、本当の気持ちを伝えられないというものがいる。

素直になれない筆頭ディートフリード大佐にヴァイオレットは言うのさ。

「近くにいるからこそ、複雑な感情を抱くこともある」

そしてルクリアと兄貴のカットが入る。ヴァイオレットが最初に学んだ人間の感情だ。

それに対して大佐は驚いて思わず漏らす。

「お前に分かるのか、人の心が」

その後の慌てて「いや皮肉ではなく」と取り繕う大佐は可愛いですね。

実際ヴァイオレットはさまざまな感情を学んでいる、そしてそれが手記人形としての仕事に生かされている。

ただ、考えてみると、それはドールの仕事として学んだことなのかもしれないですね。

ドールとしてのヴァイオレットと、んーなんだろ、個人としてのヴァイオレットの差異があるんだろうな、というのもちょいちょい見えてくるんですよね。

最初の式典の後の市長との会話なんか特にそう見えるんですよ。

ドールとしての名声を市長にたたえられているとき、わりと引き目のバストアップで、画面の中でヴァイオレットは小さく見えるようなレイアウトがとられてるんですよ。個人としてのヴァイオレットとドールとしてのヴァイオレットの乖離があるのかなって気がします。

ユリスとの会話に

「愛してるもわかる気がする」

「わかるだけ?」

というのがありましたが、これも自分の気持ちとして愛しているがあるのかわからないんだよ。この時点では。

ただ、それはヴァイオレットの中に内在化されてはいるんだと思う。心のない人形は長年の思いの人に会いに行くというにあんなに取り乱したりはしない。あの場面の心配ヴァイオレットの可愛さときたら!

いよいよ扉越しに少佐と再会したヴァイオレットは、少佐の気持ちはわかるという。それゆえ去ると。

これもある意味で裏腹であるね。素直になれないからではなくて、相手を思ってのことだが。

だから、個人としてのヴァイオレットの本当の想いはドールとしてのヴァイオレットが手紙にしたのか。伝えたい言葉を伝えたい人に伝えるために。

今得心した。

海での再会の場面では、だからもう言葉なんて出ない。学んで積み重ねて自分のものになった感情があふれ出している。

SHIROBAKOの2話で木下監督が「万感のありとあらゆる感情と時間と物語がこもってるわけよ。おきれいな顔で呼べるわけがないわけよ。も、心の中はぐっちょんぐっちょんのどろっどろなわけよ」「泣く前にさ、鼻の穴がひくくひくしたり、顔の中心皺が寄ったりするの萌えない?」て熱弁をふるう場面があるんですけど、まさにこの場面はそうなんですよね。おきれいな顔じゃいられらない。

人形みたいなヴァイオレットは、もう人形じゃなくて人間になってそれはもう綺麗な顔じゃなくて、それはもうここまでテレビ版と外伝を経ての、あるいはそこで描かれていない4年で学びに学び積もりに積もった感情の表出で、これ以外にないって書き方だったと思う。

だからさー、まあ、このラストは良いよな。すごく良い。それ以外に表現のしようなんてない。ここでさ、完全にどわーってさらわれちゃうんだよ、心を。

手紙書きたくなるよね。最近書いてねえな。書こう。

社長のこととか電話のこととかカトレアさんのこととか書きたいことはあったので、また見に行ったら書こう。


あと、ヴァイオレットが親指立てて溶鉱炉に沈むとかいう重大なネタバレをしたやつらは内蔵ばらまいてやる。



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