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赤く大きな鳥

 田瓶市西本間三丁目にある公園は以前キリンの遊具があったので、キリン公園という名で呼ばれていました。少し前に子供が落ちて怪我をしてしまったことがあって、キリンは撤去されてしまた。けれどもその名残で今でもこのあたりの住人たちはこの公園のことをキリン公園と呼びます。

 もう遊具のなにもないキリン公園。もうしわけばかりにぽつりぽつりと木製のベンチがいくつか置かれています。そのベンチたちも長いこと風や雨にさらされていたので、半分朽ち果てかけています。近所の音楽教室のイメージキャラクターが描かれていた跡がうっすらと残っています。午後の傾きかけた日の光を浴びて少し長い影をがらりとした地面に投げかけています。 

 ベンチに引っかかるようにして寝そべっている男の人がいました。傍らにはビビッドな色合いでレモンが描かれた空き缶がいくつか転がっています。

「やっているね」

 影がかかり、声が降ってきました。男の人はとろんとした目を上げます。

 一人の女の人が男を見下ろしていました。赤い外套の背の高い女の人です。男の人は女の人の来ているその赤い外套を見て、ぶるりと体を震わせ、手に持っていた缶を一口すすりました。

「どうしてそんなに飲んでいるの?」

 女の人は男の人にそう尋ねました。

「忘れたいからさ」

 男の人はそう答えました。女の人は興味深そうに眉を上げるとまた問いかけました。

「忘れたい? なにを?」

「なにって、恐ろしいをさ」

 男の人は缶をまたすすって答えます。

「なにが恐ろしいのさ?」

 女の人の問いに、男の人は吐き捨てるように笑って答えました。

「あの鳥さ」

「鳥?」

 男の人は缶を口に運び、もう空なのに気が付いて地面に投げ捨てました。

「鳥が恐ろしいのかい?」

 尋ねながら女の人はベンチの端に腰を下ろしました。その視線の先には数羽のカラスが電線に止まっています。男の人は眠たげな目で女の人を見て首を振ると、ぽつりぽつりと語り始めたのでした。

◆◆◆

 ああ、そうさ。鳥が恐ろしいのさ。と、言ってもどんな鳥でも恐ろしいというわけじゃあない。

 あんたも分かってるんだろう。あの鳥さ。

 あの大きな鳥。

 あの鳥はずいぶんと大きかったよな。なんだって? 見ていなかった?

 そんなはずはないだろう。あんなに大きなものを見逃すなんてそんなことできるわけがない。

 大きい鳥ってコンドルとかトンビとかそのくらいかって? そんなもんじゃないさ。人間くらいかって?

 おいおいちゃんと思い出してみろよ。もっとずっと大きかっただろう。車よりも、家よりも、いやいや、あの山よりもずっと大きい。

 この街の空を全部覆ってしまうような、そんな大きな鳥だったじゃないか。

 今でも覚えている。いや、忘れることなんてないだろうさ。忘れることなんてできないだろうさ。あの恐ろしい大きな鳥。

 あの鳥は突然にこの街の空に現れた。風も音も、どんな予兆もなく。気が付くとこの街の空を覆っていた。

 最初は急にお日様に雲がかかったのかなと思ったさ。そう思うほどに突然暗くなったんだ。けれども雲にしてはなかなか日が差してこない。不思議に思って空を見上げてみて驚いたね。

 そこには大きな大きな鳥がいたんだ。真っ赤な鳥だった。見たことのない種類の鳥。そりゃあそうだ。街を覆うような大きさの鳥なんていると聞いたことさえない。図鑑に載っているわけがない。

 

 結局どのくらいあの鳥は空にいたのだろう。いろんな役人さんや学者さんがやってきて何とかできないか調べたり、いろいろと試してみたりしていた。

 光を当ててみたり、大きな音を出してみたり。いつだったか軍人さんたちがやってきて大きな大砲を組み立てて撃ってみたこともあった。けれどもどんなに何をしても鳥はびくともしなかった。

 あの鳥はただこの街を見下ろしていた。時折まぶたを開けたり閉じたりしながら何をするでもなく、ただ浮かんでいた。そう、浮かんでいたんだ。いや、本当は羽ばたいていたのかもしれない。けれども、あんまりに大きくてゆっくりと動いていたので、羽を動かしているようには見えなかったんだ。

 鳥はじっと空の上に浮かんでいるだけだった。

 

  ちろん不気味に思った人はいた。そういう人たちはどこか別のところに引っ越して行った。よその街にいる親戚のところに疎開していった人もいた。

 俺か? どこに行けるっていうのさ。どうせ他に行くところなんてありやしない。

 ただ、気が滅入るような赤い空の下で日々を過ごしていたさ。

 そうしているうちに次第に鳥はこの街の風景になっていった。その日からもう太陽の光は遠いものになった。どんなに晴れていても日の光は町に届く前に鳥に遮られてしまうからだ。ただ、鳥の端から差し込むかすかな光が朝と夜とを告げるだけだった。その代わり雨も雪も関係のないものになった。それだけは良かったのかもしれない。

 

 そういえばあれは朝のことだったのか、それとも夕方のことだったのか。ただ、鳥と空のかすかな隙間から傾いた日差しが差し込んでいたのだけはよく覚えている。

「動いている」という声が聞こえたんだ。ちらりと声の方を向くと、窓の前に立っている人がいた。俺も隣に行って窓の外を眺めてみた。

 前の日と同じ風景に見えた。街、鳥、かすかに見える空。その隙間から差し込む日差しが街に長い影をそこいらじゅうにばらまいている。前の日とまったく同じ光景。

 どれだけ眺めていたんだろうか。間違え探しの間違えを見つけるみたいに、気が付いた。ほんの少しだけれども、確かに鳥の体勢が変わっているのに気が付いた。

 首が少しだけ下に落ちていた。本当に少しだった。よくよく注意してみないとわからないくらい。けれども気が付いてしまったら確かに動いているのだった。

 それに、こちらも本当にわずかにだったのだけれども、くちばしがほんの少しだけ開いているようにも見えた。いや、その時はたしか気のせいだと思ったんだ。それくらい本当に少しだけ開いているだけだったんだ。

 本当に気のせいだったら、どんなにか良かっただろう。

 

 次の日には明らかに動いているのがわかった。街の方に降りてきている。それだけじゃない。明らかにくちばしは前の日よりも開いていた。

 次の日も、その次の日も、鳥の顔はだんだんと街に近づいてきていた。

  街はたちまちのうちにパニックに陥ったさ。逃げ出せるやつはみんな逃げ出そうとした。そりゃあそうさ。あの鳥がなにを考えているのかは誰にもわからなかったけれども、どうしようとしているのかは誰にだってわかったのだから。次第に近づき、どんどん大きく見えるようになっていくくちばしを見て何が起きるのかわからない奴なんていやしなかった。

 俺か?俺もいよいよ逃げ出すことにしたさ。持てるだけの家財道具とお金を持って。急げるだけ急いで。街の外に行ってどうしようとか、考えたり算段を立てる時間はなかった。仕方がないさ。命あっての物種だ。

 街中の人間が同じことを考えていたみたいだった。街の外に向かう道はどこもひどくごった返していた。とくに介泉橋だ。わかるだろう。あの赤川に架かっている小さな橋。あの橋のところが詰まって大渋滞になっていた。あそこを通らないでは街の外に出ることができないのだから。橋の前の行列がずっと伸びて本間銀座のあたりまで届いていたよ。

 仕方がなく並んでみたけれども、ちっとも進みやしない。じりじりと焦る気持ちばかりが募っていく。不思議といさかいはなかった。他の誰もが焦っているということは誰もが知っていることだった。苛立って、顔を上げるとそこには考えの読めない二つの目と、巨大なくちばしがこちらを見下ろしているのだから。隣の誰かと争う気持ちになんてなれやしなかった。みな一様にうつむいて、少しづつ少しづつ前に進んでいたよ。

 

 明け方に差し込んだ日の光が天頂に近づいて鳥の影に隠れて、もう一度日の光が街と鳥の隙間から差し込み始めたころ、ようやく橋が見え始めた。あの赤さびの浮いた手すりが見えた時にずいぶんとほっとしたのを覚えているよ。ああ、そうだ。ちょうどそうやってほっとしたときのことだった。

「逃げろ!」

 そう叫ぶ声が聞こえた。橋の真ん中の方だったと思う。その声に悲鳴が続いた。前から波のように人が押し寄せてくる。驚いて顔を上げる。

 上げた視線に見えた見えてしまったのは、ああ!

 思い出したくない。もう忘れてしまいたい。けれども忘れることなんてできない。視界に焼き付けられたあの恐ろしい光景。

 巨大なくちばしが大きく開かれていた。いまやその中が露になっている。鋭利な歯がびっしりと並んでいる。人なんて簡単に引き裂いてすりつぶしてしまいそうな大きくて鋭い歯。 

 今までの緩慢な動きが嘘のように、橋の前方から街の方へ追いつめるように、すべてを呑み込むように、くちばしが降ってきていた。 

 

 ――――!

 轟音、が聞こえた。切断されるはずのないものが切断された音。気づかぬうちに閉じていた目を、恐る恐る開ける。そこにあったのは閉じられた巨大なくちばし。あったはずの介泉橋はくちばしに遮られて消え去っていた。あそこにいた人たちはどうなったのだろう。ぼんやりとそんなことを考える。

 くちばしが天高く持ち上げられる。もう散り散りになった行列に並んでいた人たちは呆然としたまま、そのくちばしが大きく開かれるのを見た。

 くちばしが、歯が、暗闇が落ちてきた。

◆◆◆

「それで? どうなったの?」

 女の人は地面に転がっていた缶を積み上げながら尋ねました。

「さあ?」

「さあって」

 けだるそうに答える男の人に、女の人は尋ね返しました。

「よくわからないんだよ。あの鳥に食べられて」

 男の人はそこで口を閉ざして、ぶるりと体を震わせました。

「気がついたら、いつもと同じように目を覚ましたんだ」

「ただの夢だった、ってこと?」

「そうだったら、どんなにか良かったんだろうな」

 男の人はもうちっとも味のしなくなった缶の飲み口を舐めました。

「夢。夢だったんだろうか。あれは。けれども、もしそうだとしても、あの光景。空から落ちてくるくちばし。あの光景は夢ではない。夢ならいつか薄れて消える。けれども目玉の裏側に焼き付いたように、あの恐ろしい光景は薄れやしない。くちばし、鋭い歯、赤い羽。目をつむれば、いや目をつむらなくても浮かんでくる。もしもあれが夢ならば、今こうして話している現実の方がまだ曖昧だ。だから……ああ、くそ!」

 男の人は缶を握りつぶし、引きちぎると、底に残っていたわずかな液体を舐めます。鋭利な切り口が男の人の舌を切り裂きましたが、男の人は構わず舐めるのをやめません。

「なるほど、それでお酒を飲んで忘れてしまいたいわけだ」

 女の人は男の人を眺めながら言いました。

「君がそう言うなら、もしかしたら、ここは現実ではないのかもしれないね」

 男の人はもはや女の人の話を聞いていないのは明らかでしたが、女の人は気にせずに言葉を続けます。

「君の現実はその鳥に食べられたところで終わっていて、今はあの世か、走馬灯か、それとも案外鳥の胃袋の中で幽霊が見ている夢なのかもしれない」

 女の人は立ち上がり、外套についていた汚れを払いました。

「それで、現実を忘れたいというのならさ。夢を終わらせるしかないんだよ」

 男の人は胡乱な目で女の人を見上げました。

 どうしたことでしょう。男の人の目が見開かれます。その目が見たのは

「くちば――」

「もう一度、ちゃんと食べてあげるからさ」

 はらり、と風が吹きました。

 風になびいた女の人の赤い外套が大きな影を作り、男の人を覆いました。

 沈みかけた太陽が空を真っ赤に染め上げていました。

【おしまい】


この小説は宮塚恵一様がカクヨムで主催された第一回怪獣小説大賞のために書かれた小説です。

おひねり分に余談を書く。

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