グレイス・ガール・ギルテッド
その女の子は光を放っているように見えた。
眩しくって、温かくって、ずっと見ていたくなるような光。
思わず伸ばした手は、画面のずっと手前で空を切った。
曲が終わる。カメラが女の子の上気した満足そうな笑顔を捉える。
「みんな、ありがとう!」
女の子がお礼を叫びながら、頭を下げる。大きな歓声と万雷の拍手がスピーカーから鳴り響く。
水野サチはぱちぱちと一人で画面に向かって、手を打ち鳴らした。
良いものは何度見てもよいものだ。
ふう、満足そうなため息がサチの口から漏れる。
ちらりと壁の時計を見る。ババハウスから家まで、車いすでの移動時間を考えると、そろそろ家帰らないといけない時間だ。もう一度見直す時間はなさそうだった。
残念に思いながら、車いすを操作してモニターに近づき、DVD再生機の取り出しボタンを押す。再生機が小さな唸り声を上げてDVDを排出する。サチは裏面を触らないように気をつけながらDVDを取り出すと、机の上に置いたままにしておいたパッケージに収納した。
「あら、それ東さんのライブの?」
ふいに、背後から声をかけられた。
「ええ、そうですよ」
答えながらサチは車いすを操作して、くるりと振り返る。
ババハウスのリビングルームの扉を開けて入ってきたのは、冒険家姿の女性だった。カーキ色のサファリハットに襟付きのシャツ、体のほどもある大きなリュック。サチは絵にかいたような冒険家姿をしたその女性に見覚えがあった。
「南さん、きてたんですね」
「ええ、ちょっと馬場さんとお話がありましたの」
蘭子は日に焼けたサファリハットを脱ぐと、「隣、失礼しますわ」と言いながら優雅な動作で椅子に腰を下ろした。ふと、その服装に初めて会った時の記憶が蘇り、サチはくすりと笑みをこぼした。
「どうかしましたか?」
「相変わらず『形から入る主義』なんだなぁって思って」
「え? ああ」
蘭子は自分の服装を見下ろし、少し考えてから笑った。どうやら蘭子もあの日のことを思い出したらしい。
「山登りの時でしたっけ?」
「はい、南さん、すごく気合の入った格好で来てたから」
「ええ、私『形から入る主義ですの』」
そう言って蘭子はにっこりと微笑んだ。サチもつられて笑ってしまった。
「あの写真ですわね」
蘭子が壁に張られた写真を見て、呟いた。その写真には蘭子とサチと三人の少女が笑顔で映っていた。
サチと蘭子が初めて出会った日。車いすで山に登るというボランティアの企画だった。その日のことをサチは鮮明に覚えている。その日に知り合ったのは蘭子だけではない。
写真に写っている他の三人のうちの二人、亀井美嘉、大河くるみ。その日に知り合った彼女らとの交友は、今でも続いている。最後の一人、東ゆうはもうずいぶん遠くに行ってしまったけれども。
「南さんは、東さんたちと最近会いましたか?」
「ええ、この前真司さんの写真展に一緒に行きましたわ。くるみさんと美嘉さんも一緒に」
「へえ、いいなあ」
「真司さんって、覚えてらっしゃる? あの、くるみさんの学校の工業祭のときの」
蘭子の言葉に、サチは頷いた。あれは山登りにいったのと同じ年だっただろうか。工業高校の学園祭に行ったことがあった。その時にも山登りで知り合った四人と一緒にまわったのだった。
ずいぶんと遠い日のことだけれども、サチは幼きその日のことを心に大切にしまい込んでいた。
「あの写真屋さんの男の人?」
「よく覚えてらっしゃるのね」
そうですわと、蘭子は目を見開き、手を打った。リュックをごそごそと探ってスマホを取り出す。
「これ覚えてらっしゃる?」
「わあ!」
今度はサチが目を見開く番だった。
スマホの画面に映っていたのは一枚の写真だった。展示された大きな写真のパネルをスマートフォンで撮影したものだ。
その写真は5人の少女の一瞬を切り取ったものだった。写真の中で輝くような笑顔で笑い合っているのは、山登りの写真と同じ5人の少女たちだった。
サチはこの写真のことを鮮明に思い出した。
「コスプレ写真館」。
写真を撮ったのはそんな名前の出し物だったと思う。十年後の自分を想像して、衣装を借りて、写真を撮ってもらう。そのような趣旨の企画だった。
「南さんはこのときも今みたいな格好をしていますね」
「そういえば……そうですね」
蘭子が頷き、机の上のサファリハットを撫でた。
「まさか、本当にこんな格好をすることになるとは、このときは思ってもいませんでしたわ」
「よく似合ってますよ」
「ありがとうございます」
ふふ、と蘭子の口から笑い声がもれる。
サチは写真の中央の少女に目をやった。フリルのたくさんついた、かわいらしいアイドルのドレスを着た少女。その少女に思いをはせながら、サチは呟く。
「東さんも本当にアイドルになっちゃいましたね」
サチの目線が机の上に置かれたDVDのパッケージへとちらりと移った。パッケージの中心で輝くような笑みを浮かべているのは、コスプレ写真館の写真でアイドル衣装を着ている少女の、数年後の姿だった。
東ゆう、それが少女の名だ。今では国民的アイドルグループの一員として広く活動している。
サチは蘭子の笑顔がいつの間にかひどく強張ったものに変わっているのに気がついた。その目はスマホに表示された写真を見つめている。
「どうかしましたか?」
サチは尋ねた。いいえ、と蘭子は首を振った。
少しだけ沈黙があった。
蘭子は強く息を吸って、それから口を開いた。
「ごめんなさい」
蘭子は唐突にそう言って頭を下げた。額を机にぶつけそうなほど勢いのある謝罪だった。
「え?」
突然の謝罪にサチは耳を疑った。蘭子は顔をあげないまま、黙り込んでいる。
「あの、蘭子さん?」
サチは目の前の蘭子の頭頂部を見つめながら、戸惑いながら尋ねた。
「どうしたんですか? 急に」
「わたくし、ひどいことをしましたわ」
「ひどいこと?」
サチは再び首を傾げた。なんのことだろう。まったく心当たりはない。
蘭子が顔を上げた。懺悔するように目をつむったまま、言葉を紡ぐ。
「この写真の服を選んだ時、最初、サチさんはアイドルの服を着ようとしていたでしょう?」
「そう……でしたっけ」
曖昧に答えながら、サチは記憶を探る。遠い記憶だ。
そういえば確かに、サチは最初、写真の中で東ゆうの着ているアイドルのドレスを着ようとしていたような気がする。でも、それがなんだというのだろう。
「そのあと、サチさんは『やっぱりこっちがいい』とウェディングドレスを選びましたわ」
「ええ、そう……でしたね」
「それなのに、わたくし、しつこくアイドルの服を勧めてしまいましたわ」
「ああ」
蘭子の言葉を聞いて、サチの記憶は完全によみがえった。そのような会話をした気がする。蘭子は、サチが最初に選んだアイドルの衣装を、可愛いと、そのままでもよいのではないかと、何度か言っていた。
「私、サチさんの気持ちを考えもせずに」
蘭子が苦しそうに呟く。サチはそのうつむいた視線が自分の膝先に向けられているのを感じた。膝先に取り付けられた、金属の義足。
そうだったのかもしれない。あの時サチがアイドルの衣装ではなくて、ウェディングドレスを選んだのは、丈の短いアイドルのドレスでは、義足が露わになってしまうからだった。でも、そんなことは。
「南さん、そんなことを気にしていたんですか?」
「そんなことって、サチさん」
「そんなことですよ、南さん」
じっと、蘭子の目を見つめながら、サチは言った。頬に力を入れて口角を上げる。上手く笑顔の形になっていればいいけれど、と思う。
「だって、私ずっとこうだったんですよ」
「でも」
「しょうがないことはしょうがないって、わかってます」
蘭子の言葉を遮って、サチは言葉を続けた。
サチは自分の言葉が嘘でないと、心の内で確認した。嘘ではない。物心ついた時にはサチの足は金属の足で、動くためには車いすが必要だった。それでできないこともあったし、諦めることもあった。でも、それがなんだというのだろう。
できないことは誰にだってある。それがサチの場合は他の人より少し多いというだけだ。
蘭子がじっとサチを見つめる。その眉間には深い皺が寄っていた。
再び、沈黙が流れた。
「私ね。お嬢様でしたの」
沈黙を破ったのは、蘭子の意外な言葉だった。蘭子は少し考えて、首を振って付け加える。
「今でもそうですわ、わたくし、お嬢様ですの」
「はい」
「欲しいものは、欲しいって言えば、なんだって買ってもらえましたわ」
蘭子は視線を落としたまま、とつとつと話し続ける。蘭子の話がどこに着地するのかわからず、サチは曖昧な相槌を打った。
すっと、蘭子の視線が滑り、机の上のDVDの上で止まった。
「でも、アイドルは違いましたわ」
「アイドル?」
「ええ、私たち、アイドルをしていましたの」
「それは、知っていますけれど」
サチは蘭子の横顔を見つめながら頷いた。
蘭子と東ゆう、くるみと美嘉はローカルTV局の番組の企画でアイドル活動をしていたことがあった。東西南北(仮)というグループだった。東西南北(仮)はオリジナルの曲を出し、番組で歌い、いくつかのフェスに出場した。
東西南北(仮)はささやかだけれども、まぎれもなくアイドルだった。
けれども、そのアイドルグループは苦い結末を迎えた。
「わたくしはアイドルには向いていませんでしたの」
蘭子はその結末を重たい声で述べた。
「いろんな人を笑顔にする。アイドルのそういう部分は、わたくしは大好きでした」
蘭子はそう言って笑った。けれどもサチにはその笑顔はどこか悲しそうなものに見えた。
「でも、わたくしがアイドルの活動で好きだったのは、それだけで、それ以外の部分は結局……」
少し遠くを見て、蘭子はつづけた。
「結局好きになれませんでしたわ。わたくし、アイドルに向いてないんだなって思ったんですの」
「南さん」
「でもね、サチさん」
蘭子はサチの顔を見た。車いすのひじ掛けに置かれたサチの手をぎゅっと握って、蘭子は言う。
「わたくし、アイドルをやってみて初めて自分がアイドルに向いてないんだってわかりましたわ」
蘭子は大きな目が、じっとサチの目を見た。小さな躊躇いを呑み込んで、蘭子が尋ねた。
「ねえ、サチさん。あの時、サチさんは本当に花嫁さんになりたいと思いましたの?」
「思ってたよ」
間髪入れずに答えて、サチはごくりと唾をのみこんだ。遠い日の記憶だ。本当の気持ちなんてよく覚えていない。それに覚えていたからと言ってなんだというのだ。
だから、サチは頷いた。口角を上げて、眉を下げる。
「私は花嫁さんになりたかったんだよ」
蘭子はその言葉を聞いて、ふっと微笑んだ。それから、立ち上がりサチの頭を優しくなでた。
「そうですか」
「ええ」
「それなら、良かったですわ」
そう言うと蘭子は立ち上がり、時計を見た。
「あら、もうこんな時間。ごめんなさいね、すっかりおしゃべりしちゃって」
「いいえ、楽しかったです」
「わたくしも楽しかったですわ。サチさんも、帰りますの?」
「はい、そのつもりです」
「じゃあ、一緒に帰りましょう」
蘭子はてきぱきと帽子をかぶり、リュックを背負うと、机の上に置きっぱなしになっていたDVDのケースを手に取った。
「これはどちらに?」
「あ、そこです」
サチがテレビの隣の棚を指差すと、蘭子は頷いて棚にDVDを戻した。
ふっと、蘭子の細い指がDVDの背をなでた。
「ねえ、サチさん」
「はい」
サチは自分の荷物をまとめて、膝の上に置きながら答えた。蘭子はDVDを見つめながら続ける。
「例えば、わたくしは少しでもアイドルになりたいって方がいれば、応援したいと思っていますわ」
「だから、それは、無理ですよ」
サチは首を振った。軽く足を持ち上げる。金属の足が車いすのフレームにぶつかってかちりと鳴った。
「もちろん簡単なことだとは言いませんけれども、チャンスがあれば挑戦してみるのもよいかもしれませんわ」
「そんなチャンスがあったらいいんですけどね」
「ありますわよ。きっと」
蘭子は振り返り、にっこりと微笑んだ。その微笑みは憂いのない暖かな笑みだった。
その笑みを見ていると、なんだかサチにも幸運が舞い込んでくるような、そんな無根拠な自身が感染してくるような気がした。
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