見出し画像

重度訪問介護を再始動に当たって過去の思い出と新たな人に不安もあるけど

重度障害者介護から離れた時

私が25歳の時に18歳の障害を持った女性と授産施設で出会いました。そこを退職して約25年後に再び出会いましたが私の顔を覚えていました。

最初に出会った時とは違ってベット生活でした。その後に症状が進んで気管切開が必要と言われて時に他界しました。

当初は女性なので気管切開によるカニューレイの装着を嫌がってからかと思っていました、ふと実はヘルパーに負担を掛けたく無かった?!と感じました。

障害が進めば親しいヘルパーさんの負担が増えるのが嫌だった。確かに一晩中痰が切れずに喀痰吸引や不穏になって寝ずに部屋を駆け巡って仮眠が取れなかった朝は辛いものも事実です。

大変だからと言って居なくなれば良いと思う人は1人も居ないけど、深夜の緊急度の低いトラブルは心身に応えたりもします。心ある人は限界まで続けてしまったりもするので。自分が逆の立場ならもしかして同じ選択をするかも知れない。

そう思わせないために潤沢な人財が必要かも知れない。そんなふうにに感じました。

前の重訪(重度訪問介護)は数十年前に会って面識のある方ばかりでした。また会の運営する事業所で働いたり、会に縁のある方で勝手知ったる人ばかりから今回は全くの初顔合わせの方が全員でドキドキです。

高齢者ホームで学んだこと

小さな声を取り上げると言うのは綺麗事に聞こえるが負担は大きいことを人手不足の高齢者ホームから学びました。

朝夕は食事で数十人が会するがスタッフは2.3人。どうしても声の大きな人に集中してしまいます。人によっては日中はデイサービスに行ったり居室にこもられるのでコミュニケーションを取るのは朝夕ぐらいしかない。

日中は訪問業務で入浴や清掃、施設業務、社内業務と多々あって異変の無い利用者さんとゆっくり話す間もなく、「忙しいところをすみません」と利用者さんから言われて何の介護をしているか分からなくなったりします。

一人一人の声が聞けるのは訪問で居室清掃時や入浴時位で、折角小さな声が聞けたとしても時間的人員的に望む事が出来ない場合が圧倒的に多いです。

この2年間の高齢者施設でそれまで同性介護が普通の障害者介護から来て戸惑いや叱られた事も多くありましたが、お陰で色々と気づけるようになりました、

この先は重度障害者介護に戻るので母親のような高齢者介護する機会は無くなると思いますが貴重な月日をおくれた事に感謝です。

(重度)障害者介護に戻って

シフト表を見ると「夜勤3日•日勤1日のローテション」「訪問先までの片道移動90分」と笑っちゃう内容でした。

実はこれらは前に退職理由になったり避けたい勤務条件でした^_^。夜勤少なめ(無し)は面談に話しましたが諸事情で譲歩しました。

最後の介護仕事として応募〜内定承諾まで葛藤もありましたが始まれば業務に専念します。建設業界の最後の職場は上場の黒企業で始発から21時〜22時勤務で休みはベテランで月1回でした。

自分が選んだ会社で神様から与えられた場所と思い過労死まで働く気持ちでいたら、まさかの介護業界への転職許可が出ました。

今回の職場も自分の意思で決めて、代表の理念に共感しての入社でした。会社が大きくなればトップの思いは途中の役職者に阻害されて高尚な企業理念が末端まで伝わりづらくなり目の前の業務に相殺されがちです。

かの営業の神さまの松下幸之助氏が「小さな町工場の時代が良かった」と言ったとか言わないとか。新たな出発に不安もありますが使命にあった選択なら必ず道は開ける。

これまでの経験とアドバイスは入社後3ヶ月間は社風や流れに慣れるまで苦しい思いをするかも知れませんが、4ヶ月後から薄皮をはぐようにスムーズに動き始めます。

「人を信じて出会った仲間を信じて相談していく」中で魔の3ヶ月を乗り切りたいと思っておます。

最後までお読みいただきありがとうございます。 もし気に入っていただけましたら「スキ」&「フォロー」もよろしくお願いします。