実際の障害者殺傷事件を題材にした映画「月」を観ました
「月」は2016年7月26日相模原市にある県立の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で、入所者19人が殺害された事件を題材にした作品です。
障害者と関わりたいと思って再チャレンジした重度訪問介護ですが理想と現実の相違に疲れ気味の時に知った映画です。観たいと思いつつマイナーで会場と上映時間のタイミングが合いませんでしたが、急遽入った休日で期せず見に行けました。
映画紹介
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感想
見終えて感じたのは余りにも現場とリンクし過ぎで、いつもなら直ぐに書きたいと思う気持ちがショックが大きいかったせいか手につかずに昼食を終えてクールダウンして立ち寄ったカフェで書きました。
聾者の登場と思い出
私が障害者支援(介護)に関わるきっかけに聾者との出会いがあります、聞こえない(聞こえにくい)ために話す事が出来ない方も少なくありません。
凶行に及ぶ元職員のさとくんの彼女は聴覚障害で読話(唇の動きで話しを読み取る)が出来ます。その彼女の耳元で凶行に及ぶ事を伝えます。その行為が思い込みにしろ正義感から出るものだったら正面きって話して、彼女に止めるきっかけが出来たように思います。
聴覚障害者向けの手話ボランティアをしている時に言われたのは「酔っていても可能な限り手話をする」そして「時には意見の相違で対立してもいいが聴こえの保障(手話)は止めてはいけない」でした。
我々健聴者は仲違いしてお互い無視する事もあるけどそれは相手の存在を認めた上で話さないと言う選択、聴こえない障害を持つ人から音の情報を断つ事は相手の存在を認めない事たから絶対やってはいけない行為でした。
それはスキル不足で上手く伝わら無い事とは全く別次元の話しです。
真っ暗な部屋でベッド生活の方の場面
施設の最初の場面に光の届かない部屋でベッドに横たわったまま動かない「きーちゃん」が登場しました。「目が見えず」「落ち着く」ために真っ暗な部屋でベッドに寝ていたきーちゃんの姿が印象的でした。
全盲の方で夜間に照明をつけない方もいますが、晴眼者が夜間訪問すれば照明をつけてくれたりします。きーちゃんは暴れる為にベットに絞り付けたので歩けなくなりまし。
高齢者施設でもありがちです。暴れたり転倒リスクの高い方を車椅子やベッドに半強制的に縛り付ける風景も見られます。
理由は圧倒的なヘルパー不足が要因で安全に過ごすため行われている所も多いようです。
話せない人との交流を感じて
新しい障害者施設に非正規で務める主人公の堂島洋子がきーちゃんに話し掛ける姿を(きーちゃんの)お母さんが喜ぶ見て場面に見て胸が熱くなりました。
高齢者介護に関わる方は「ありがとうの言葉が嬉しい」と聞きます。話せない重度の障害者と関わわる1人として「感謝の言葉や表情は求めていない、(思い込みかも知れないが)いっときでも心が通じた」と感じた瞬間の喜びが忘れられずに関わっているように思います。
暴れて部屋に入らない方の場面
力づくで部屋に入れる場面がありますが現実的に起きる事です。誰しも突然腕を掴まれて引っ張られれば抵抗します、丁寧に説明して対応する事が建前ですが障害ゆえに理解出来ずに職員も人数等の関係から時間的な余裕が無くついついは力づくで行っていた事が習慣化してしまうことがあります。
弄便(便まみれ)の男性の場面
認知症のお母さんをお世話する家族さんが「帰宅したら家中便まみれで愕然とした」話しを思い出しました。
さとくんが夜間に便まみれの男性の姿を見て何か取り憑かれたように決意してしまう場面でした。
障害者施設のスタッフ一人一人に満たされない思いがあり、ここで働くしか無いといった悲壮感がありました。
記事から強度行動障害について
千差万別ある不安や不愉快の原因を見つけるのは時として辛抱強く探し続ける根気と覚悟が必要です。それは研究者の如く今の世に求められるコスバ至上主義とは相反するものです。
障害者(者)·施設と関わって
介護職に関わらずどんな仕事でもそこに携わる人が似たような背景でも会社そのものを破壊しようと思い行動する方はめったにいません。
生身の人間と対面する事は「人の醜さ」と向きあう事かと感じています。先輩から「介護はドロドロさを見るのではなく、人が生きて行く上での生々しさを感じてほしい」と言われた事が記憶に残っています。
「お金を稼ぐ為」「仕事」と割り切って介護に就く方は虐待に走るケースも多いですが、誠意を持って関わっている人もいつしか疲弊して心を殺して前者になったり離れていくのはとても残念な事に思っています。
その為に自分に出来る事は当時者の障害者の支援は元より、関わるスタッフに寄り添い心の叫びを聴き取り少しでも支えられればと思っています。
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