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現代の田園へ、「書を捨てよ街へ出よう」


はじめに

 「書を捨てよ街へ出よう」の映画を見た感想?解釈?を書いてみる。さっきみたばっかで、繰り返し吟味もしてないから誤解してる可能性大!次の章から固くなる!書いた経緯とかは最後に書くからまずは解釈を見てくれたら嬉しいです!
 寺山作品は「アダムとイヴ、私の犯罪学」「田園に死す(映画)」を観たことがあるので、そこらへんの文脈を汲んだ論述もあります。
※3/10、最後にちょっと追記
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主題の射程

 冒頭と終盤の、役者としてのエイメイの一人語りは映画を語るようで、映画の外部にあるように見える。しかし、緑に塗られた=演出されたフィクションの状態にある彼の語りは映画の内部にあり、そこでの彼の発言は、映画を客体化しているようではあるが映画の内部にあり(事実として映画の内部にあり)、彼の語りは「書を捨てよ、街へ出よう」という主題の射程に収まるものである。よって、彼の発言もまた主題解釈に絡めるべきだ。なお、緑に塗って演出を強調する演出は、「田園に死す」にも使われていた。
 また、以下にこの映画の解釈は続くが、私の解釈を正しいものと仮定すると、この主題の射程は現代にも届くものであり、むしろ、現代においてその威力を高めているようにも思える。しかし、この映画の製作された1971年の時勢と深く関わるであろう描写も多く、そこを捨象して語るのはナンセンスだろうから、無闇に抽象化して現代に当てはめるのは暴力的であると考える。

書とは何か、街とは何か

「書を捨てよ街へ出よう」
 この言葉から寺山の詩、映画などの作品の文脈が捨象され、単に「家に引きこもってないで外で生活しよう!」というふうに用いられるのをよく目にする。しかし、家とは何か、外とは何か。そして、「出よう」という勧誘は正当性を持ったものであるか、皮肉を含んだものではないか。この言葉を普遍的なスローガンとして扱うのではなく、寺山の言葉として受け取るならば、私たちは十分に検討しなくてはならない。

 さて、「書」とは何か。それはよく言われる「家」というものに近い。そして、「書」を解釈する前に「街」を解釈した方が楽だと私は思う。映画内で、"街は開かれた本であり、無限の余白がある"という言葉が登場する。(街の壁に落書きされたものとして)この言葉を一旦真であると考える。正直この点について検討するのは面倒だから。(あと、ちょっと思ったのが、フェルマーの「余白が足りない」のオマージュかなと。)

 街は開かれた本であり、無限の余白を持つとした。では、捨てる本とは何か。それは、閉じられた本であり、有限な余白しか持たない小さな本だろう。そして、映画内で捨てられるものといえば、そう、家である。

有限の書=家

 ここで言う「家」と言うのは、小さな街(共同体)である家族であり、旧来の日本社会であり、また「田園に死す」の田園、寺山の故郷青森だろう。戦争犯罪者の負け犬であり家でヘラヘラ笑うばかりの情けない父親、人間嫌いウサギ変態の妹、家父長制の染みきった面倒臭い万引き常習犯の祖母で構成される家族。ポルノ、娼婦を共有し、女性を媒介した歪な同性愛により形成される穴兄弟のホモソーシャル、サッカーチーム(と、彼らと遊ぶミドリという娼婦)。以上が、家を構成する主なメンバー。

 この「家」ではさまざまな人が虐げられている。まず、主人公エイメイはホモソーシャルに馴染めず、孤立している。娼婦と絡み合っているときに「お医者さんごっこ」に変化するのは、ホモソーシャルに馴染める正常な立派な男になるための治療を意味しているのだと思う。妹(およびその他少女達)は、旧来の家父長的な価値観に支配された祖母達(女は学校行かなくていい)によって虐げられる。妹は、祖母にウサギを殺されたことで気が触れてしまい、サッカーチームに遊びに行った際陵辱される。この陵辱行為が、自傷行為的なものだったのか、妹にとっては偶発的な被害だったのかはわからない(あるいはどちらも)。陵辱された少女達は娼婦に落ち、さらにホモソーシャルによって搾取される。

 どのように主題に関わるのかよくわからないのだが、主人公エイメイは亡き母の湿った陰毛を思い出すように、性愛的な思慕をむけている描写がある。(エディプスコンプレックス?)

人力飛行機=家出

 冒頭の役者としてのエイメイの語りで触れられた、在日朝鮮人の失敗した人力飛行機。エイメイは、そのわずかに飛べた数メートルに憧れを抱いていた。

 作中で人力飛行機の映像が初めて流れるのは、確か主人公エイメイが家を飛び出し、線路を走り出すシーンだったと思う。その後も、家出(街に出る)ことを想起させるシーンで人力飛行機の映像は繰り返し流れる。確か、最初のシーンでは父親が「行かないで」と縋っていたように思う。父親は、きっと家出をできずにエイメイを引き止めたいのだろう。

 人力飛行機は家出のメタファーである。そして、家出とは、家族からの解放、古臭い家父長的日本からの脱出を意味しているだろう。主人公は家出を目指し、「家」の被害者である妹もまた、のちに家出をすることになる。家出の先輩は、サッカーチームの先輩、オウミだった。

街=無限の書?

 家出する人々が求める先の「街」とは何か。それは、家族からも、家父長的な日本からも解放された、自由な楽園のはずだった。しかし、そうではなかったのだ。

 終盤、役者エイメイは「人力飛行機は、掴まる先がなかったから失敗したのだろう」と推測する。家出した人々には、掴まる先がなかった。

 劇中、オウミは「家族の役割のほとんどは国家などに肩代わりされ、今では愛、血のつながりのようなものしか残っていない」と語る。その家族が解体されていく過程が描写される。

 まずは祖母。気味の悪いウサギ変態で、家父長制にも従属しようとしない妹を懲らしめようと、祖母は隣のキンさんにウサギ殺しを依頼する。(このキンさん、劇中で何度も言及される高倉健さんのオマージュなのではと思う。殺して見せましょう?みたいな高倉健のセリフが何度も繰り返されるし、殺しを実際に依頼されて行う白スーツのかっこいい男といえば高倉健なんじゃと思う。高倉健よく知らんけど)ウサギ殺しで愛想をつかしたのか、父は祖母を養老院(老人ホーム?)に送り出そうとする。「倅は私なしじゃ生きていけない」と言い張る祖母が惨め。祖母は養老院送りを免れようと逃げ出す。逃げ出した先で「宝くじが当たった」と嘘をつき、構ってもらおうとする。騒ぎによってキンさんに見つかってしまい、祖母は連れ帰られ養老院に送られる。「いらなくなったおっかさん、おっとさんありませんか」という廃品業者のリアカーに乗せられて。キンさんのセリフから、祖母の万引き癖は、みんなに構って、大切にしてほしかったから生まれていたものだということが判明する。家族が解体されていく過程の被害者だったのだろう。(「田園に死す」において家出が成功した場合の母の姿)

 妹は陵辱ののち娼婦におちる。父が買ってきた新しいウサギにも興味を示さない。(お父さんかわいそう……)そして、かっこいい家出した男、オウミに惹かれ家を出ていく。しかし、よくよく思い返せばオウミはサッカーチームで人気者だった。オウミは家出したようでいて、その実、家父長的な「かっこいい」「強い」「男」だった。妹はオウミに搾取されているだけなのだ。オウミの家を彩る外国風のバイク、インテリアにミッキーマウスが象徴的だ。主人公は、妹を搾取するオウミの姿を見て決別することになる。

 家には父とエイメイのみ。父は、祖母がいなくなったことによりすっかり荒れ果てた家の中で一人働きもせずヘラヘラ、ダラダラと死ぬのを待つだけ。エイメイは、終戦直後のようにラーメン屋をやらせようと屋台を父に渡そうとする。父を自立させようとしているのだ。その目的は明白。自分に依存する父を切り離し、家を出たいのだ。

 家を出たエイメイは、幸せになれただろうか。少なくともそうではなかったことはわかる。行き交う人々に話しかけても全く取り合ってもらえない様子は、彼の都市での孤独を表しているようだった。方言が聞き取りづらかったため何を言っているのかわからなかったが、何か問題を起こし、警察に囚われてしまった。

 以上で、家族の解体が完了した。そして、これは解体の一例に過ぎないのだろう。街には、他にも家出してきた人々が溢れていた。そして、彼らには掴むところがなかった。

 では彼らは街で何をしているのか?その例が、劇中で描写された運動や堕落だろう。燃やされるアメリカの平和(peace)、国旗、「自由の敵の自由を許すな」、これらはきっと安保闘争という運動の表象だろう。その描写からは、その行動主義的なところへの寺山の皮肉な目線が窺える。(ここが意外だった。安保闘争と寺山のスタンスを勉強しなきゃ)街中に男根の形をしたサンドバックを吊るす二人組はフェミニズム運動だろうか?さらには麻薬の流行に、橋の下で汚いセックスといった堕落が描写される。

 「街」は本当に無限の書だったのか?無限の広がりを持つからこそ、よるべがなく上記のようなところに若者が殺到するのかもしれない。しかし、ここでオウミの描写に注目したい。

 オウミは、間違いなく家出の成功者だろう。だが、彼はあまりにアメリカ的な家の中に、家出少女=娼婦を飼っている。その女に、後輩の相手をさせようということもする。彼はひどく家父長的だ。これは、家父長的な旧来の日本を脱出しようとしたら、アメリカという父による家父長制が待っていただけだった、という、家出の失敗の表現ではないだろうか。(ここからは寺山の反米的な眼差しが窺えるので、上記の安保闘争的な描写との関連が気になる。安保には反対するが、それに参加する学生達は軽蔑していた、といったところだろうか?)

 家=書を捨て街に出た気になっていても、また別の何か(それはもしかしたら別の何かではなく、同じ書かもしれない)にとらわれるだけなのではないか。そういう疑念が湧いてしまう。

燃える人力飛行機

 終盤、人力飛行機が燃える様が描写される。これは家出の失敗を意味するのだろう。うまく聞き取れなかったが、「いいのか!祖国よ!」のような言葉もあった。家出に失敗したのは誰か。それは、主人公/役者エイメイであり、寺山であり、日本であり、そして、観客だろう。

「昼間のビルの壁に、映画なんて映らない」
 その言葉はきっと観客に向けられたものだ。「なんで映画なんか見てんの?」と役者エイメイは問う。役者エイメイが登場するシーンは、正直あまり咀嚼できていないが、なんとなく、彼は劇場を家に喩えているのではないかと思った。家=劇場の外では意味のない映画なんてものをわざわざ見にきて映画=家への感傷に浸って、用が済んだらさっぱり忘れて劇場から出ていく。家を出た気になっていても心が囚われており、たまにその心を慰めるためにインスタントに映画を摂取する、そういうふうに観客を表現したのではないかと思う。

 田園に死すにおいても感じたことだが、「書を捨てよ、街へ出よう」というのは、あくまで淡い希望に過ぎないのかもしれない。少なくとも寺山は街へ出られていない(と自認している)。家=書を捨て街に出た気になっていても、また別の/同じ何かに囚われるしかないのだ。

同居人募集、現代の田園


 Tinderで相手をスワイプするように、たくさんの同居人募集が流れていくシーンがあった。このシーンは、特に現代まで射程を伸ばすシーンであると感じた。

 「同居人募集」は、家を出た人々が掴まるところを探す孤独な運動なのだと思う。家族から切り離されたものの、どうしても寂しいものだから、一緒に生活する人を求めるのだ。オウミが男同士で全てを(女すらも)共有するシェアハウスの構想を示していたが、これも同種のものかもしれない。同居人募集に男性同性愛者的な人が混ざっていたのも、ホモソーシャルなコミュティの残存を示すものかもしれない。(ここで注意しておきたいのは、否定されるべきは女性を媒介とした同性愛「的な」関係、ミソジニー的な関係のことであり、同性愛ではない)しかし、それでも「嫉妬が問題だ」というのだから、きっと完全に結束した集団ではなくて、様々な軋轢から瓦解していくことだろう。この描写は、Xでよく見かける「まんさん叩き」によるミソジニー的な馴れ合いを想起させる。

 幸せの手紙はギャグ的に、時事ネタ的な?ものとして挿入されたものかもしれないが、SNSの展開した現代的にこの描写を見つめれば、孤独な人間達が無意味な電子上のやりとりで孤独を紛らわす営みにも見える。そこから逸脱したものに不幸が訪れる、というのは、村=家の決まりを破ったことで村八分にされるようなもので、新たな村=家の出現を意味しているのかもしれない。私たちは今でも家に残り、田園に死んでいくのだろう。

終わりに、雑談的な

 見てよかった!そしてこの記事を書いてよかった。
 
 寺山作品に初めて触れたのは昨年6月、下北沢のスズナリだった。唐組の透明人間を見て「アングラおもろいかも!」と勢いに乗って観劇したのが「アダムとイヴ、私の犯罪学」。タイトルがめちゃかっこいい。

見た公演のポスター

 正直、あんまり「アダムとイヴ、私の犯罪学」は面白いと思えなかった。当時の俺のツイート(まだTwitterだった)がこのとおり。(ツリーもあるよ)

 正直、あんま理解してなかった。はずかしいね〜〜〜。なので、しばらく距離を取っていた。

 それから月日は流れ、今年の2月、「田園に死す」の映画を見た。寺山キャバレーが盛り上がり、その感想がXに流れてくる中で有名なラストシーンの違法アップロードが流れてきて、「教養として見ときますか……w」という気持ちで見た。(下のリンクからアマプラのページに飛べるよ)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00FIWIK7U/ref=atv_dp_share_cu_r

 そしたらめちゃくちゃ面白い!わかりやすかった、自分が共感できるところが多かった、というのがでかい。そして、「寺山さんってもしかして案外普通の人なのでは……?」と興味が湧いてきた。そこで、大学図書館で寺山さんの著作集を借りてきて「アダムとイヴ」を再読してみたら、これがめちゃくちゃおもしろい。それはやはり、理解できたからだと思う。「田園に死す」が補助線になった。どうやら寺山さんは母や父、家族の束縛、家出といったところに一家言あるらしいという知識が役に立った。こんな鑑賞法どうかと思わなくもないけどね。まあ、そういうわけで、寺山さんの他作品も見てみようということで、今回「書を捨てよ街へ出よう」を見ることになった。いやーおもろかった。

 先日様々な演劇関係の知人と話していて、考えたことは形に残したほうがいいと思いたち、今回初めてnoteに自分の解釈をまとめてみた。書く過程で自分の考えもまとまっていったり、新たな発見があったり、とても楽しかった。疲れるけど、いい映画や演劇を見たらまたやりたい。

 それにしても美輪明宏さんが美しかった。寺山さんと関係があるとは知っていたけれども、急にどう見ても美輪さんという人物が登場してきてビビった。役者してるの初めて見たけどなんかすごいな〜。あ、アルセウスは見た。もののけ姫は見てない。出口が入り口になる場所、おぞましかったけど、主人公が外の世界で触れる恐ろしいものの表象なのかな?毛皮のマリーも読まなくちゃね。

じゃ

※追記
「出口が入口になる」って、アナルセックスの話だけじゃなくて、もしかして家を抜けて街に「出る」つもりが別の家に「入っ」ていたことを示しているのか。家出をアナルセックスに喩えてる?????
あと、もしかして寺山さんは少しゲイについて良くない見方をしているのでは?という疑念が湧いてきた。人をレイシストと決めつけるのは良くないからちゃんと検証する必要があるけど、疑いが自分の中である。劇中の同性愛的な描写を見るときは注意を払いながら見たい。

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