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在日であること

いま私は自分が在日コリアンだということを何とも思ってなくて、というのはそれを隠したいとかその事に対して複雑な気持ちを抱えているなんてのが無いという事なのだけど、プロフィール欄にもわざわざ在日3世と明記してるのだからやっぱりそこに何かしらの思いがあるんじゃん、と自分に突っ込んでいる。気にしていないと言いながら、いやほんと、なんなら「一般的じゃなくてえーやろ?」くらいに今は思っているんだけど、過去の西川文子は当時すごくすごく『日本人じゃないこと』が嫌だった。生きていることが恥ずかしかったような気がする。だからそんな可哀相な西川文子のために書こうかな。子供の頃は家でおばあちゃんが韓国語を話すのを友達に聞かれるのがすごく嫌だったし、大人になって付き合った人にはそれこそ決死の思いで「在日であることの告白手紙」なるものを渡して「あぁ、これで私たちの仲はもう終わるかもしれない」と悲嘆にくれていたりした。うちの両親は在日であるということを隠す、まではいかないけど極力出さないように暮らしていたように思う。大人の会話が分かるようになって親戚が集まった時の会話の端々から、自分たちは日本人じゃなくて韓国人で、それは在日と呼ばれていてそして差別されている存在なんだと知った。今もう43歳になって、13歳って30年前かぁと思いつつ13歳の文ちゃんは性格とか見た目とかでなく、ここに生まれついた私は差別される何だかそういう人間なんだと思っていたのかどうか30年も前だからその時の気持ちを正確にいま描写できないんだけど、でも当時の私は韓国人であるワタシが好きじゃなかった。普通の日本人家庭にとても憧れていた。うちの色々いけてない所は全部日本人じゃないゆえにだと思っていた。そう、私は「韓国人」だから嫌だったんじゃなくて「日本人じゃない」のが嫌だったな。もっと両親が韓国人であることを誇りに思って生きていたら私はどんな風になっていたんだろうと思うことがある。けれど若い時には朝鮮学校とかに行かされなくて良かったと思っていた。だって朝鮮学校に行ってたらバレバレやんと思ってた。そしていまだに私は朝鮮という響きに抵抗を持っている事に自分で気付いている。イメージってあるやん。韓国のイメージって今いいけど朝鮮ってさ。ほら。差別について書きながら差別している私。あぁ綺麗にオチをつけてまとめたいのだけど自分の中にあるこの差別感情を隠して書き続けられない。勝手に付けているイメージを剥ぎ取ろう。ああそうか、すべてイメージなんだ。与えられた。植えつけられた。‥られた?受け身にするのは止そう。被害者ぶるなよ。北朝鮮に行ったこともないし朝鮮人に会ったこともない。テレビやニュースから自分で自分に植えつけたイメージを取るんだ。丁寧に剥がす。一枚一枚薄皮まで。それは自分で感じているもの?それともどこで拾ってきたの?ほら魂で見えるようになってきた。肌の色髪の色を超えて容姿も超えて見えるのは光続ける魂。今私は13歳の文ちゃんに話しかけている。世間のイメージであなたを見ないこと。それはただのイメージであってあなたとは全く関係がないこと。とても、美しいこと。いつまでも光輝いている存在であること。

どうかな。少しは心が軽くなったかな。13歳の私はずっとそこにいるんだ。30年越しに私の言葉を聞いて肩の力が抜けてくれてたらいいなあ。


何度でも何度でも大好きだよと言いたい。



全ての傷が癒えますように、と祈りたい。

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