謝罪にもタイミングがある(それがコミュニケーションならね)
Q.謝罪は誠心誠意行うべきだ
・そう思う
・そう思わない
もしこういう質問があったら多くの人が「そう思う」と答えると思う。あえて「そう思わない」を選ぶ人はそれなりの持論があるか、あまのじゃくか。
問題は、"誠心誠意"とは何かということだ。
とにかく平謝りすればOK? それ、された方はどう感じるかなぁ。
もし謝罪の原因によって相手が怒っているとしたら、相手の怒りの状態を顧みずに謝罪をすることは押し付けでしかない。
例えば仕事で部下がミスをした時にとにかく「一生懸命やりました」ばかり強調したらどうだろうか。それを誠心誠意謝っていると捉えるかはともかく、それより前に状況の把握と評価、そして再発防止など、問題解決への具体的な行動が必要だろう。
プライベートの謝罪における問題解決とは何か?
ビジネスの如く補償や再発防止策の協議まで厳格に求めるのは現実的ではないとしても、その謝罪を何のためにするか、を考えないと、自覚のないまま自己満足や正当化のための謝罪を相手に押し付けることをしてしまうかもしれない。さらには相手の反応に変化がないと「こんなに謝っているのに許してくれないなんて...!」という逆ギレに変わることも珍しくない。
その「謝罪」はコミュニケーションなのか、デモンストレーションなのか。それがコミュニケーションであるなら、相手の怒りに向き合わなければ無意味だ。
そしてこれは謝罪に限った話ではない。SNSでのやりとりもコミュニケーションが成立している場合とパフォーマンス(たとえばマウンティングなど)でしかない場合がある。
コミュニケーションには絶対解はなく「解決」を目指す必要もない。つまり許したり許されなきゃいけないわけでもない。こういう曖昧な場に相手とともに飛び込むコストがコミュニケーションには必要になる。すべての人とコミュニケーションを取るよりも、互いにパフォーマンスをしていた方が楽、ということも言えなくはない。
そこで一応の解決、と区切りをつけることができるからだ。
だからといってパフォーマンスばかりの社会になってしまったらなんだか寂しい。みんながそれぞれの心地よいバランスを取って生きられると良いよなぁ。
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