草刈り鎌は誰でも装備できて攻撃力はそこそこ。たまにクリティカる
暑い。11月の半ば。雨が降り始めた。セミの声が止む。
鍬を持っている。とんでもなくごついススキの根を掘り起こしている。なかなか手ごわい。
かなり不快指数の高い環境ではあるが、私は楽しんでいた。そう、これはハックアンドスラッシュだ。
この切り株くらいでかいススキの根はボスキャラにふさわしい。さっきまでは鎌を持って刈っても刈っても後から出てくる名も知らない蔓植物を刈りまくっていた。
対象によって特性の違う武器を使い分け効率的に刈っていく。選んだ武器によって姿勢や力の入れ具合を変え、鎌の一撃で太めの枝をスパッと切れた時、鍬の一撃でザクッと太い根を両断できた時、気持ちよさは格別。
こうした原始的な道具はまさに身体の延長であり、うまく扱うことはそのまま自分の身体が拡張したような感覚を味わえる。
フィクションにおいて「所持する人間を惑わす魔剣」のような存在が度々出てくるが、これはまさに道具が身体性に直結しているからだ。
つまり人間が道具を自身の肉体の拡張として使う時、力学的に肉体と道具は直結していて使い手の意識としても道具との一体感がある。
だからこそ逆に道具の持つ魔性の何かに影響を受けてしまうのでは?と想像するのだろう。でもこれはまあ、単なる想像ではなくて現実にもある。「トンカチを持つと全てが釘に見える」みたいな。
スマホのような電子式の道具はどうだろう?鍬や鎌のようにタップという身体動作による入力と画面に出力される結果が直結していない(なるべく直結していると感じさせる方がスマートで、まったく連動を感じなかったらそれはUI/UXデザインに失敗しているけど)。これは言い換えればスマホという道具に知性または知能があると使い手に感じさせる。もちろんそれは予め誰かが組んだプログラムに沿って反応しているだけで、スマホ自身の知能ではない、と使い手は知っている。
でも「もしプログラムを組んでいる『誰か』が人間ではなかったら?」「もしスマホ自身が思考して反応し始めたら?」
・・・という想像から書かれたフィクションは数多くある。AIが反乱を起こし人間を支配するようになる、という感じのもの。
こういうフィクションの傾向って道具と人間の身体の関係をそのまま反映している、と考えると面白いよね。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?