現実と虚構の区別がつく奴なんかいない
ある言葉が発せられる時、その言葉には使い手の解釈が含まれる。その解釈は使い手の思考だけで作られるのではなく感覚に大きく依存している。つまり唯物論的に唯一無二の現実があるかどうかはおいといて、わたしたちが議論する「リアル」は常に人間の数だけあって、微妙に違うというところからこの話を始める。
※ちなみに実際には「合意形成された現実」という最大公約数的な概念で現実という言葉を捉えるのが社会においては有効だと思われる。
リアルな戦争ゲーム
最近「PUBGモバイル」というスマホゲームをやっている。http://pubg.dmm.com/
簡単に説明すると、ある島に100人の人間がパラシュート降下し、廃墟となった軍事施設や病院、住宅地などに落ちている武器を拾って最後の一人になるまで殺し合うバトルロイヤルゲームだ。
私はこのゲームを非常に「リアルだ」と感じた。言うまでもなく実話ではなく、実際の殺し合いではない。人の挙動も不完全である(銃弾を2発受けても「包帯」を5回使えば元通りになるとかね)。
しかしもし実際にこういう状況があった時の、プレイヤーの行動心理は非常に(私が考える)リアルに近い、と感じたわけだ。
「現実と虚構の区別がつかなくなる」だって?
ファミコンが出て以来「現実と虚構の区別がつかなくなる」という言説は根強くあるし、最近だとアニメが標的になっているのだろうか。しかしこういう言説を唱える人達が考える「現実」とは一体何なのか?
言うまでもなく、戦争ゲームで人を殺す行為と実際に凶器を右手に持って人を殺める行為の区別がつかない人はいない。人間の脳みそはそういう誤作動を起こすようにできていない。
今や、VRやリモート操作が実現する時代だ。これらの操作を現実の操作と結びつけることなんてたやすい。つまり実際の戦場のカメラがゲーム画面のように表示され、ゲーム感覚で爆撃や狙撃を行うことは少なくとも技術的には可能だろう。
この時「現実と虚構の区別」という言葉はどんな意味を持つのだろう?
日本の戦争論は戦争=太平洋戦争となりがち
日本で「戦争」というと日中戦争・太平洋戦争を指しすことが多く、その経験が戦争に一般化して戦争論が語られがちに思う。言うまでもなく80歳以上の世代が経験した戦争は現実だし、その証言や資料は貴重だけれどそれが普遍的な「戦争の現実」ではなく「話し手の現実」として捉える必要がある。
つまり今の60歳くらいより下の人にとってそれらの話は「現実」ではないし、虚構との区別はつかない。
発言者が言葉や資料に嘘があるかないかを見極めることは不可能ではないしそうやって歴史を検証することは重要なのだけど、それを虚構との区別をつける行為かと言うと少し違う。
虚構と現実の間に「他者にとっての現実」がある
虚構というのが「明らかな作話」と定義すれば現実と虚構の区別には意味があるかもしれない。けれど実際そんなにきれいに分かれるかというか分けられないと思う。分けられるとしたらよほど強固な共同体にいて「現実」を共有しているケースがありえるかもしれない。
しかし現代社会においては私達はかなり多様な「現実」を生きていて、それをネットに吐露してもまったく違う「現実」を生きている人には作り話にしか聞こえなかったりする。
「自分の現実」にしがみつくのは賢明ではない
「現実と虚構の区別がつく」と自認する人や、他人に「現実と虚構の区別がついてない」と批判する人がいるが、その「現実」はその人にとっての現実でしかない。
ファミコンやアニメと現実を混同する人はいない。しかしこういう明らかに無理筋で他者を非難する人は、要するに自分の現実を唯一絶対のものとして守りたいのだと思う。
類似の言葉として「常識」とか「普通」という言葉があり、これらを多用して仲間内で愚痴ったりその場にいない人の悪口を言っている人々は、自分の「現実」を強化してそれにそぐわない人の「現実」を否定したいのだ。そうしないと自分の現実が侵食されると考えるのだろうか。すくなくとも「他者にとっての現実」は「(自分にとって当たり前の)現実」とは違うという基本的なことを理解していないのだろう。だからいつまでも同じようなメンツで同じような愚痴を繰り返すのだ。
先の戦争論についても太平洋戦争体験者の「現実」を多様な現実のうちの一つとして捉えないと有意義な議論はできまい。
しかし虚構はセーフティーゾーンではない
虚構に対して「現実と虚構の区別がつかなくなる」という批判は的外れだという話を長々書いてきたわけだが、反対に「虚構だから現実と関係ない」というのも現実の多様性に無自覚で、「自分の現実」を固定してしまっているという意味では同じ穴の狢だろう。
ゲームやアニメは現実から切り離された退避場所ではない。ゲームをしている時間やアニメを見ている時間がその人の「現実」だ。
虚構の未来の「現実」を作っていく
そもそも小説やゲーム、アニメのような明らかな虚構は現実と対立する概念ではない。虚構がリアルに近づくこと=リアリティがある作品の価値は、それ自体が現実の予備体験になることだと思う。
PUBGというゲームは状況に対する備えと行動と、他者との相対とフィードバックなどいろいろな体験を与えてくれて、興味深い。
こうした予備体験は実際の体験とは違うが、それを言うなら実際の体験も過去の体験とは違う。毎回違う体験をするからこそ、私達はそこから学習し、成長することができるし、人生は飽きない。
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