理系と文系と実学と虚学と理学部と文学部と。

学部一年生の頃、同じ理学部の同期と英語の授業をさぼって日向ぼっこをしながら進路の話をしていた。

私の大学では理学部は一年生の間学科毎に分かれておらず、2年生への進学時に地学、化学、数理、物理、生物の学科へ分かれるようになっていた。
一年間は各々の分野の授業を受けて、広く浅く知識をつける。
私は入学時は「宇宙とかかっこいいし物理したいな、でも数学もかっこいいな」
というぼやっとしたビジョンで入学し、半年ほどそれぞれの授業を受けて
ほとんど哲学と化した難解な数学に音を上げたのと
物理の授業が面白かったことから物理学に進もうと考えていた。

一緒にさぼっていた同期の女の子は数理に進むつもりだと言った。

「まじか。大学入ってから数学輪をかけて分からんくなったわ。」
「それはそうやけど、虚学って一番楽しいやん。」
「あぁ、それは何となく分かる。」
「思うんやけどさ、理系の端っこに数理があって、これはもう概念の世界やん。
で、間に工学とか経済学とかの実学があって、また文系の端っこに哲学があって、概念の話になるやん。この端と端はぐるっと繋がってるような気がするんやんな。」

面白い考え方だな、と思ったのを今も覚えている。「理学部じゃなかったら文学部行きたかった」

という言葉は意外と理学部でよく聞く。
私もこれからまた再度大学で学ぶなら、理学部以外なら文学部がいい。
私の研究室の前教授は引退後学部生として文学部に入りなおしたという話も聞いた。

なぜかは分からないが、推測では
俗に虚学と呼ばれる学問に進む人は
「それを何かに還元したい」「世のために役立てたい 」という欲がかなり低い気がする。
その代わり「知りたい」という欲が強い。知らないことを知りたい、人類の知識の淵が存在するなら、その端っこに立って1μmでも広げたい。

結局私は物理学科に進んだものの宇宙物理ではなく素粒子物理学に進んだ。
素粒子物理学の思想の根本は「私達人間は、この世界は、何からどのように生まれたのか。どのように成り立っているのか。」
ということだと私は思っている。

これは元を辿れば古代ギリシャ哲学と同じ思想だ。
数式か、言語か、ツールが異なるだけで、根本の欲求は同じなのじゃないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?