見出し画像

追悼文、夏

夏、自分でやらないと来ない。

夏って自動的に始まるものだと思っていた。プールも海も、花火も浴衣も、夏が始まれば勝手についてくるものだと思っていた。もうみなさんお気づきかと思いますが、どうやらそれは違うらしいね。冬はイルミネーションが勝手に生活を侵食してくるくせに、夏は自分で手作りしなきゃいけなかった。とんでもない季節だな。

『夏が始まった合図』はどこで聞けるんだろう、と考えていたらもう終わりに差し掛かっていて驚く。私たちは今年の夏の出来事のうち、いくつを来年まで覚えているんでしょうね。

蝉の声は人に責め立てられているみたいで好きじゃない。首を折った向日葵が、夏の延命をしているみたいに見える。誰かが何かで言っていた。四季の中で夏だけが「終わる」らしい。


 1年前、私も、手の届くものが生活の全てだと信じていました。この人を好きになった自分は間違っていなかったと、自分もこの人に好かれているんだと、信じていました。祈っても祈っても見えては来ない未来は、それでもきっと大丈夫になると思っていました。
夏が終わって、それらが全部間違いだったと気づいてからも、あの時の全てに啖呵を切って、「私は悪くなかった」って、まるで正論みたいに唱えていた。どこにでもある、誰かのリメイクみたいな話。よくいる人と、よくある展開を、馬鹿にして、嫌悪して、傷を手作りしていた。

本当は。
本当のところ、もう、正しいも間違いも、どうでもいい。どっちがどうだったかも、どうでもいい。たった1年前、全てだったことが今、何でもないことが悲しい。何の思い出にも、何の経験にも、傷にさえもならなかったことが悲しい。つまり、もう悲しくないことが悲しい。せっかくつけてもらった、傷だったのにね。

それでも一度心を寄せたものを否定するのは楽しい。あの時の自分を殺しているみたいで。

昔は夏がちゃんと見えていたんだよ。そこに「ある」ことを信じて疑わなかった。子どものとき当たり前に用意されていたものから自由になって、解放されて、生きやすくなって、つまんなくなって。いつからか夏は、もう実体じゃなくて、信じないと存在しない「世界観」になった。もう私も何を言っているのかわからなくなってきました。とにかく今年の夏、本当に暑かったよねって。もう誰のことも好きになれないわ、ってなるような気温だったよね。


こうやって書いているわたしは、現実でヘラヘラしている外向きのわたしとはちょっと違う、内向きのわたしだと思ってくれればそれで何の支障もないのですが、それがわからない知り合いにこれを読まれると、とんでもない苦しみが待ち受けているなと思う。わからない人間に分からせることやわかってもらうことは不可能な話だから。わはは!



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?