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新政府軍を苦しめた長岡藩

JR長岡駅前にある長岡城址碑 2011年7月

 越後長岡の長岡城は、今のJR信越本線長岡駅のあたりにあった。
 先日、ブラタモリで長岡の花火が紹介されていたが、それよりも、幕末期長岡藩の家老であった河井継之助にもスポットを当ててほしかった。
 戊辰戦争で新政府軍に迫られた長岡藩。小千谷にて長岡藩軍事総督河井継之助は新政府軍軍監岩村精一郎と会談を行う。
 この会談で河井は中立を提示した。
 おそらく、これが日本における初めての中立という考えではなかったのだろうか。
 しかしその提示は岩村に一蹴され、長岡藩は奥羽越列藩同盟に加盟し、新政府軍と戦うことを決意。
 ここに北越戊辰戦争が始まった。
 一時、新政府軍に長岡城を奪われたものの、戦術に優れた河井は長岡城奪還を果たし、新政府軍を後退させるなど大善戦をし、この戦いの勝利さえ見えてきた。しかし、援軍である米沢、会津、仙台各藩の長岡入りが遅れ、加えて指揮をとる河井が負傷し、その上、要港である新潟が新政府軍の手に落ち、形勢は逆転。
 河井らは八十里越えの道を通り敗走することになり、只見を経て塩沢の集落で河井は落命した。

 この戦いは戊辰戦争でも新政府軍が最も苦戦した戦いと言われ、この新政府軍大苦戦を知る人は長岡の人など一部の人だけだったという。
 新政府はこの苦戦をよほど恥じて、語り伝えたくなかったのだろう。
 何か最近の政府にも似たようなことが起きているような…。
 それにスポットライトを浴びせたのが司馬遼太郎氏だという。
 詳しくは司馬遼太郎氏の小説「峠」に書かれているだろう。
 しかしこの作品は長編なので、私は読んだことがない(笑)その代わりに読んだのが同氏の短編作品「英雄児」(文庫「馬上少年過ぐ」に収録)だった。

 かつての日本には、優れた軍師、優れた政治家が散発的に現れては消えたが、昨今はさすがに軍師はわからないが、優れた政治家は皆無と言ってよい状態だ。
 今の日本、国も国民もしっかり守ってくれる政治家の登場が待ち望まれている。

JR只見駅。河井継之助も通ったであろう只見。この先二つ目の駅が会津塩沢。河井最期の地だ。


※八十里越え、今に換算すれば320キロ。しかし、越後から会津への道のりはそんなに距離はなく、実際には八里程度。あまりの難路ゆえ、1里を10里に見立てたためにこの名がついたという。

〇おまけ
長岡駅に残る、レールが敷かれていない謎の新幹線ホーム。
実は、このホームには羽越新幹線の列車が入る予定だったという。
羽越新幹線は富山と青森を結ぶ新幹線計画で、一部区間は北陸新幹線上越新幹線を併用する予定だったという。
今の日本の状況から察してこの計画は実現不可能でしょう。

謎のレールの敷かれていないホーム。右は上越新幹線。

※タイトル画像は長岡駅前にある三尺玉二尺玉の打揚筒 2011年7月撮影