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怖い人だと思って受け止める

何を書いても自由というということだったら、あなたは何をブログに書くだろうか?小説というフィクションだったら、「罪と罰」や「1Q84」を持ち出すまでもなく人を殺すことも書いてOKである。ぼくのブログもフィクションであると一応断っておくことにしたい。そう断ることで今から書こうとすることはちょっと勇気がいりそうなのである。確か埴谷雄高が政治と文学というエッセーで、政治の本質は「敵は誰だ、敵を殺せ」だと言い切っていたように記憶される。(あとで、「幻視の中の政治」という評論集、の記憶違いだと分かった。)

今ちょうど「死霊」を読んでいて、その感想をネットで検索して若い人が謎解きのゲームのような感覚で読んでいるのに遭遇して、違和感を感じてしまったことが今書きたいことの動機になっている。全く政治に無関心に「死霊」を読み解く自由はもちろんある。「死霊」は確かに謎かけに読者を誘う。ドストエフスキーの末裔として悪と闘う精神のバトンを受けとるよう、誘惑されもする。ぼくが言いたいのは埴谷雄高は怖い人だということだ。読んで謎解きに嵌ったら、君は敵を殺さなければならなくなり、逆に敵から殺されることもある政治の世界に進むよう促されるのだ。それほどの覚悟があって読んでいるようにはとても思えなかった。

ところで現代の生きているこの世界で、あなたは誰を敵と考えているだろうか?ぼくは長い間敵が誰だか分からなかった。分からないように敵がさせているということもある。資本主義社会では誰が敵か分からなように仕組まれている。自分の人生が経済的に追い込まれてどうにも立ち行かずに死を考えるようになっても、自己責任だと思い込まされるようにできている。ぼくは資本主義を知ることを生涯のテーマにしている一人だが、それは敵を探し敵を殺すためなのだ。実際に殺すという政治の世界には住まないが、文学の世界には住みたいと思っている。敵を殺すために、その一環として「死霊」を読みたいと思っている。

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