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邯鄲の夢のはなししたい

邯鄲の夢【かんたんのゆめ】

人の世の栄枯盛衰のはかないことの例え。



 SAKANAMONの初期の曲に多く見られる「難解な歌詞世界」。
artist spoken曲解説にて元生さんもお話しされていましたが、「シンプルな曲構成には難解な歌詞をあてる」。この、どうにも捻くれた、一筋縄ではいかないところが好きで。
自分なりに歌詞を読み解き考察しても到達できない彼の思惑や聞き手への投げかけが、きっと想像している何倍もあるんだと思います。

 INSUROCKがリリースされて、やはり難解な歌詞の曲たちが沢山ある中、良い意味で引っ掛かりがあり立ち止まったのが邯鄲の夢でした。
 分かりやすく生々しい思いを吐露している歌詞だと感じたんです。

 こんなにも生々しく重くのし掛かってくる歌詞を、当時の飄々としていて何を考えているのか分かりやすそうで全く掴めない元生さんが書いたのだと思うと、なんというかもうギュッと心を掴まれまくってしまい…

 以下、恐らく沢山の人が歌詞について発信されているとは思いますが、個人的な見解と感情を書き殴ります。
すべての曲の歌詞を全て追いながら、ここが好きだぁ〜と発信したいのですが、なんとなく二の足を踏んでいたので、エイヤと思い立った勢いで書き残しておきます。
異論は認めます。

七十万時間の約三分程を
得に成らぬ恥を掻き捨てた刹那だとしよう
欲が織り成すその場限りの景色には
当て所無い価値がある

「人生は約七十万時間、その内の約三分」を表しているのだと分かった瞬間に、もう既に燻りが見えてきて、不穏な雰囲気まで感じる歌詞だなと思いました。初めて聴いた時になんだこれ何を歌ってるんだと思うばかりで、深く考え込まないと分からなかった歌詞なんですが…

 バンドに全てを捧げた青春を送ってきた元生さんが、音楽をつくるという行為に対してなのか音楽そのものに対してなのかは分かりませんが、恥を書き捨てた刹那と表現するところに 当時はまだ私には理解しきれないアーティストの想いのようなものがあるのだろうなと感じていました。

 特別でありたい、人とは違うというパーソナリティを発揮してうまれる言葉達を「当て所ない価値がある」と自信を持ち誇りも持っていることは明確なのに、その言葉たちを「得に成らぬ恥」と表現するところが当時の元生さんをひしひしと感じる部分だと思ってます。

 この冒頭の歌詞に対してだけではなく、邯鄲の夢の歌詞全てに対して言えることではあるのですが…

 絵を描くことも曲を作ることも、ものづくりという観点で言えば同じだと思っているので、元生さんがつくりだす自分の曲を子供のように感じていること自体にかなりグッとくるのです。
無から何かを生み出す苦しみも、唯一無二の価値があることも、子供のように愛おしく感じることもすごく共感できます。愛おしく、素晴らしく価値のある三分間を歌う曲なのかなと、やはり最初は思うのですが、どうしてもAメロから不穏なんですよね。

 とはいえ、16年目を迎えた彼らについて改めて考えた今は、「恥を掻き捨てた刹那」という表現に対して愛おしさやいじらしさを感じます。あくまで個人の感想ですが…。
 だんだんと「恥を掻き捨てた曲達だけど、聴いてくれる変わり者がいるからいいや」といった歌詞が増えていき、更にコロナ禍を経た彼らは「自信を持って作った曲だから、気に入ってくれたら嬉しいな」というマインドになったと思うので、その変化を感じた今だからそう感じるのかもしれません。いじらしいよね。
 きっと今も根本には「恥を掻き捨てている」という想いがあるのかもしれませんが、その言葉自体も良い意味で変化してるのかもしれないですし 創作は欲が織り成すからこそ強いエネルギーを持っているのだと信じてます。

波に乗り損ねた
はい残念それまで
必死で沸かした微温湯の中で
故意に零した 最早これまで
所詮凡愚と笑い出すよ

 転調した瞬間にガクッと膝が折れる感じというか、狐につままれたような、それこそ違和感を感じる音で、しかも歌詞がこれなんだもん。びっくりだよ。
初めて聴いた時、この歌詞で物凄く不安になりました。笑
世の中に対する不満は曲にぶち撒けるけれども、やはり掴みどころがなくて自らの感情を積極的に発信しない印象だったので。こんなにも分かりやすい言葉を使うということに凄く特別な感情を抱きました。

当て所ない価値があると確信しているのに、必死で足掻いて沢山のギミックも施した曲たちが、「波に乗り損ねた」という一文ですべて拾われずに終わってしまうのかと
幼気な少女の「善し悪し決める浮き世の基軸は 乱暴で内臓煮え繰り返る」という歌詞に通ずるものがあると思うんですが、絶望すら感じてしまうこの歌詞に、元生さんの胸の内の深いところに渦巻いている何かを想像しては涙腺が崩壊します 胸も痛いです…多分考えすぎです私が

 「微温湯」の意図することが何なのか考えてもまだよく分かりません…明確な何かを指しているんでしょうか 
熱湯のような激戦区であったり、所謂「売れた」と言われる位置にいないことを微温湯とさしているのか?とも思いますが もしそうなのだとしたら、しんどみが増すんですが、同時に表現力と言葉の選び方にただただ感服します。惚れ惚れしてしまいます。
 そこで「微温湯」という言葉について調べたところ、ぬるい湯という意味のほかに、「刺激・緊張感のない境遇や生活のことをさす」と知りました。どうやら森鴎外の書籍にそのような使われ方をしている文章があるようです
恐らく深読みですがえぐ〜〜〜と思いました。

綴る無けなしの言葉 未読の儘で
激しく投げかけた音が通り過ぎる
可笑しな君の日々の傍に
それも何時しか記憶から消える迄

 これだけ言葉に含みやギミックや想いの乗った歌詞も、「流行りに乗れない、波に乗り損ねた」みたいなもので読まれもしないというこの歌詞、物凄くストレートでしんどくて何度も何度も聴いてしまいます しんど・・・と思いながら聴いてしまいます

 それか、曲が耳に入ったとしても歌詞すら未読、耳も脳みそも通り過ぎるという意味なのか…何にしろこの直球すぎる歌詞を2014年の彼らが世に出したという事実が凄い。切ないししんどい

 そんな歌詞を歌った直後に「可笑しな君の日々の傍に」ということばがきてしまい感情が滅茶苦茶にさせられるという 業が深いですよ本当に
我々ファンにとってSAKANAMONの音楽が日々の肴として常に傍にあるからこそ、バンドとファンの間にある信頼感や結束感のようなものが生まれると思っていて、ファンのことを大事にしてくれるSAKANAMONには特にその繋がりを強く感じるのですが、

 それでもずっと日常に居続けるという保証はできないのが人間ですし。
 その原因が乱暴な浮き世の基軸なのか、はたまた別の何かなのか、それは様々だと思いますが…。

 そして、いまだに「記憶から消える迄」という歌詞の「まで」の捉え方をずっと考えているのですが、
「今は傍に居るけれども、結局は消えるまでだ」
「記憶から消える迄は傍に居よう」
どちらなんでしょうか 続く歌詞を見るとやはり前者かと思いますが どちらにせよ切ない響きだと感じます。

平凡たる者は雑魚に目もくれない
無情にも針は絡まない
僅かにつまされたならず者だけが
逝かないで逝かないでと泣き出すよ

 しんどいです〜〜〜!!!がしかしすごく私にとって価値があるというか、SAKANAMONというバンドに対して重い重い感情を持っていいんだと思わせてくれる歌詞です。

 SAKANAMONが自分たちの音楽をさして「爪弾き」「ならず者」「窓際」といった類の言葉を親戚のように、友達のように使ってきたバンドであり、そんなバンドの紡ぐ歌詞や音楽に共感して好きになったからこそ特別な意味になる言葉だと思います。

 元生さんが初ワンマンで放った、「自分達の音楽を好きでライブに来るような皆さんは、中々の社会不適合者だと思いますが…」といった言葉。これが全ての楽曲に対してスパイスになりまくる大好きな言葉です。
「つまされる」という言葉は「心をいためしみじみと哀れみを感じる」といった意味で使われることが多いようですが、勝手な解釈で「他人事ではないと感じる」という方の意味で捉えています。自分たちの音楽を聴いてくれる人のことをさしてならず者とするのか、または別の何かを指してならず者としているのか、前者だと解釈していますがどうなんでしょうか

 自分の人生や価値観に痛い程にささる音楽と出会えたこと、それ自体に大きな価値を感じていますし、出会ってしまったがゆえに逝かないでと縋ってしまうこともまた事実でして
そんな「ならず者」達の存在を歌っているのだとしたら、やはり私はこの歌詞に特別な感情を抱いてしまいます。

君のゴミ箱に落ちた景色の中で
鳴り止む様々な音が虚無に帰る
性懲りも無く 唯 恥を描く
それも何時しかこの世から消える迄

 ここまで勝手な解釈をつらつらと書いてきましたが、それもきっと元生さんの意図とはズレたものなのだろうなと思ってしまうのがこの歌詞です。

 いつの間にか忘れ去られてしまったり、意図的に忘れたり 結局は自分たちの音楽はゴミ箱に棄てられるのだという捻くれ者の嘆きと捉えるか
もしくは社会不適合者、ならず者達の脳みそなり耳なり心なり、何かしらをゴミ箱と評していると捉えるか 恐らく純粋に前者の解釈でいいのかしらと思ってます。

 邯鄲の夢をつくった当時の彼らにとって必要とされていると信じたい気持ちもありながら、結局は忘れるんでしょ?ゴミ箱に落とすんでしょ?と問いかけられているような気持ちにもなります。本当にどストレートな歌詞ですが真意の程はわかりませんし、切実に曲解説をして欲しい気持ちと自分の解釈のままでいたい気持ちがせめぎ合うという。

 続く歌詞は、どうせ忘れるんでしょうと嘆きながらも、それでも性懲りも無く音楽を作り続けるという決意表明なのか抗いなのか
 三分間の刹那の美しさや価値を身をもって知っていて、逝かないでと嘆く存在も認識している元生さんが、唯一無二のバンドであるという誇りのもとに欲を書き散らすこと自体を揶揄している歌詞に、先述した通り最初は何とも言えない感情を持っていましたが、最近はこれが元生さんの音楽に対する向き合い方なのかなとも思うようになりました。

 2014年当時の彼らのことをよく知っているわけではないですし、ましてや私はバンドマンではないので 単純に、純粋に、この歌詞をそのままの意味で読み取った方がよいのかなとも思ったりします。

『世間から追い出されるどころか見向きもされない、そんな僕たちの音楽の良さを分かってくれる偏屈な人々は居る。そんな可笑しな人々のために、懲りもせずにずっと音楽を作り続ける。結局は忘れられるけれど。』

こんな感じでしょうか…いやほんとにしんどいんですけども ただ単に「売れねえ、チクショー」と嘆くのではなく、聴き手の存在を認識してくれていて、分かってくれる貴方の為に、という意思をどうしても感じてしまうから愛おしいんですよね。
これも邯鄲の夢に限った話ではないですが。

糞在り来たりな餌で蝿が集れば
僕の下らない言葉は腐れ落ちる
可笑しな君の日々の傍に
どうせ何時しか記憶から消える迄

性懲りも無く 唯 恥を描く
この世から消える迄

 なんやかんやでこの最後の歌詞が、個人的に最も胸が苦しくなります。自分の勝手な解釈で苦しくなっているだけなので、やはり真意は分からないままですが…
 「糞在り来たりな餌に蝿が集る」という表現、初めて歌詞を見ながら曲を聴いた時に驚きました。当時私は高校生で、あまり多くの音楽を聴いていたわけではないのですが、それにしてもこんなに上手く、言葉を選ばずに言えばドロドロで人間臭すぎる感情を言葉にしてしまう音楽があるのかと思いました。
INSUROCKに限らず、コロナ禍前まではその時にできた曲を詰め込むというスタイルだったこともあり、アルバムを通して聴いていて唐突に、心にまとわりついてくる曲がきて 衝突事故みたいな衝撃があり。
SAKANAMONの底の見えなさを感じて怖くなるほどでした。

 ミュージックプランクトンの「続々と腐れ落ちるベタベタ垢抜け音頭」と同じようなことでしょう。所謂分かりやすい流行りの音楽、世の中の評価に投げかける疑問をまっすぐストレートに批判した歌詞で くどいようですがとにかく心の内側をそのまま吐露しているような歌詞に感情がぐちゃぐちゃになります。
冒頭にも書きましたが、初期の曲に多かった、「不満や批判を分かりにくい比喩などでぶっちゃける」といったスタイルをひっくり返す正直さに圧倒されました。それと同時に、それでも聴いてくれる人達への微かな願いのようなものも感じてしまうのは私だけじゃないはず。

 最後、「この世から消える迄」という一文は、バンドの解散であったり、曲が人々の記憶から消えることであったりをさしているのではなく、そのまま「自分が死ぬまで」という意味でしょうか。
音楽をうみだすことを「恥をかく」と歌っている元生さんが、しかしその行為で生きていられるしこれからも生きていくという強い強い決意表明なのかなと、私は解釈します。
この最後の一文こそが、藤森元生という人 そのものを表している気がしています。だからこそこんなにも不安定に見える歌詞なのに、物凄い安心感を感じるのだと思います。


 以上、勝手な解釈をつらつらと書き殴ってきましたが、あくまで個人的な解釈ですので異論は認めます!すみません!

真向ツアーで邯鄲の夢を演ってくれたことがあまりに嬉しくて勢いのまま書きました。言葉も文法も滅茶苦茶ですがいちファンの独り言として捉えていただければと思います。(小心者なので叩かないで〜!!!笑)

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