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徳川家康さま☘️をたどる#31☘️🆚武田戦争突入

初筆 2023年 4月 22日 / 加筆修正 未
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スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#31
⬇️
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1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

  • 三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著

  • 信長公記 / 太田牛一さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 三方原の戦は負け戦で、軍の規律も乱れている状態で、逆追撃をするクレイジーな三河武士団

  • しかしそのクレイジーさは、信玄さまをうならせる程度の効果は発揮、つまり家康さまの評価はむしろ上がった😂

  • 信玄さまは長篠城・野田城確保し、岡崎-浜松をつなぐ拠点うち残るは吉田城のみとなるが、そこで信玄さま持病が重症化、甲斐の帰途途中でご逝去

  • 信玄公お亡くなりになったのが、15代将軍義昭さまつまり室町幕府、朝倉氏・浅井氏が滅亡するきっかけとなる。また信長さま・家康さまは自陣や戦略を立て直す余裕が生まれた

前回記事はこちら
⬇️

3 勢力温存の武田家との衝突は続く

信玄公は1573年・元亀4年=天正元年、
お亡くなりになり、
武田軍は三方ヶ原のすぐあとに
いったん甲斐国へ帰りました。

家康さまにとってラッキーだったのは
信玄公は私の死を3年間は秘匿せよ、と
遺言したもののスグに家康さまにはバレバレに
なったことくらい。
家康さま少しだけ心の荷がおりたのも束の間、
武田家は当主が世代交代しただけで、
依然として勢力温存のまま。

1573年・元亀4年=天正元年から
1582年・天正10年、武田勝頼さまご自害による
武田家滅亡までの役10年間、
家康さまは武田勝頼さまとの境界線小競り合いを
延々としなくては領国の保全ができなかったのです💦

後には征夷大将軍となり江戸へ開幕する
家康さまで、天下取りのころになると
歴史的な動きも派手になるのですが
この1573年〜1582年は本当に活動が地味です。
こーいう家康さま文章を15ページとか読んでも
感想があータイヘンだったのねー、の一言しか
出てこないこと多いですわ。

家康さまも当然、
このころに「自分が日本のリーダーになる」
なんてことはまったく思ってなかったと
思います。
だって隣の国・甲斐との小競り合いに
10年ですよーー💦
いつんなったらラクになるんやろ
くらいのことしか思うてはれへんやったん
ちゃいますやろか。

4 長篠城だけは取れた💦💦

信玄さまお亡くなりになった
1573年・元亀4年=天正元年、7月には、
家康さまは武田勢の三河への最前線基地である
長篠城の攻略を開始、9月にお見事
攻略なさいました。

武田🆚徳川騒乱のうち重要な拠点が2つあります。

  • 高天神城

  • 長篠城

です。

のちに長篠の戦、武田勢の勢いを
止め始めることになった合戦も
長篠城の周囲で行われました。後日話します。

長篠城は2つの川が合流する地の突端に
建てられていて、お城敷地は崖の上という
「天然の要塞」です。
この城を家康さまがこのタイミングで
ゲットできたのは、ラッキー
なぜなら長篠城は東三河の目と鼻の先
そんなところに武田軍最前線基地があっては
浜松と岡崎さらには織田信長さまと
分断されてしまい、徳川家いきなりピーンチ
なりますやん🤣💦💦

家康さまはこのお城に奥三河国衆の
作手奥平の定能さま・信昌さま親子を入れ
家康さま長女の亀姫を嫁に出し親戚にし
進退と領国の保証を確約しました。

ちなみに高天神城は1574年・天正2年
武田勝頼さまは高天神城に押し寄せて攻撃。
信長さまの援軍は間に合わず、
城主の小笠原長忠さまは、やむを得ず降伏💦

5 境界線の一族を保証するということ

進退と領国を保証するというのは
治安を守り、収益と名誉を保証する、
ということなんですが、
現代の、大きな争いを目の当たりにしない
日本に住んでる私たちにとっては
想像できない内容かと思います。

領国境界線の地域の豪族は
戦国時代も天正時代1570年代ともなれば
大きな2つの勢力に挟まれてることが多く
その大きな勢力2つが領地争い・小競り合いを
してることが多いです。

まさにこの武田🆚徳川戦の境界線の
作手奥平氏はその立場でした。

領国境界線の地域の豪族は
2つの勢力の戦乱が長引くと
どちらの勢力が安定し自分たちの地域を
守ってくれるのか、てんびんに計るようになってくる。

もし自分たちの敵となる方が攻めてきた場合、
当時の戦争は兵糧は現地調達、
つまり、田畑が荒らされる。
境界線豪族にとってどちらに味方するのかは死活問題。

また、自分に与してくれる地域豪族を守れない大名は
地域豪族の離反をまねくことになる。
つまり境界線豪族ピンチ時の救援は至極大切なこと。

そして戦を止めるわけにはいかない。
しかし戦を続けると地域の農民にも負担をかける。
その折り合いの付け方も主君の大切な技量、
そこには地域住民の立場から見ると
「義」や「徳」が見えなくてはいけない

上述の作田奥平氏は、徳川家康さまを信頼して
自分たちの命運をお預けになったということですね☺️

6 境界線戦乱一覧


境界線ではどんな戦がなされていたのか
三河物語の記述いくつか話します。

武田は穴山梅雪さまを遠江に遠征させた。
梅雪さまは森に陣取りし、そこここに放火し、
略奪をし田を刈り取る。
家康さま配下の兵はわれ先にと駆けつけ
そこここで首を取った。

武田勝頼さまは遠江出陣。
久野・掛川、あたり一面放火
天竜川の上の瀬を越え浜松を攻める。
馬込川を前にして足軽に敵地を荒らさせる。

1574年・天正2年4月
家康さまは犬居城、攻撃するも仕切れずに撤退中に
こちらの谷間、あちらの山裾の森から
鉄砲を撃ちかけられ、結局敗退。

三河物語、この武田🆚徳川騒乱の時代は
上記のように、小さな戦とそのとき
誰が戦死したかをパラパラ掲載。
この取り留めのなさが、武田🆚徳川騒乱の
小競り合い日常化具合を表してるかと思います💦

その他にも武田軍と勝頼さまは

  • 足助城(豊田市)侵攻

  • 浅賀井など諸城陥落

  • 野田城(新城市)侵攻

  • 二連木城(豊橋市💦)開場

と、なんと、
吉田城(豊橋市)手前まで侵攻する勢い❗️
一連の上記の武田軍侵攻は長篠城を取り囲む
エリアを少しずつ歩を固める感じの侵攻でした。

そして、このキツイ武田軍の攻めに
徳川家は、長篠城こそ取ったものの
ジリジリ領国を狭めていき、
武田🆚徳川の2大勢力が競り合いをしてる
というよりも、
武田🆚織田の2大勢力の境界線の豪族である
徳川家康さまが織田側についている状態。
そして、織田信長さまに時として
領国の保証をしてもらわないといけない
状況にまでなってきたのではっ❓❓❓


7 次回

このころ地元の遠江井伊谷を追われていた
井伊虎松さま、のちの井伊直政さまは
家康さまに仕えて井伊家の家名再興を果たします。
その背景には何があったのか❓❗️
また岡崎では武田家と内通する家臣あり
大賀弥四郎事件が勃発します❗️❗️
相変わらずピンチの家康さまっ🤣💦💦💦


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