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徳川家康さま☘️をたどる#30☘️三方原その3

初筆 2023年 4月 15日 / 加筆修正 未
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スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#30
⬇️
https://stand.fm/episodes/643aa3f38a52be72e3009536


1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

  • 三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著

  • 信長公記 / 太田牛一さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

三方原の戦は徳川軍のボロ負け、その敗因の根本は
信玄さまの待ち伏せ作戦だったのか、
家康さまの気の早りのせいかはわからないが、
家康さまより信玄さまのほうが戦国武将としては1枚も2枚も上っ💦

浜松城落城に向けて追撃する武田軍を追い返したのは
なんと、大ハッタリ作戦、空城計
プロデュースドby酒井忠次さまっ

前回記事はこちら
⬇️

3 負け戦なのに逆追撃する三河軍団❓❗️😂

三方ヶ原で圧勝した信玄さま率いる武田軍は
犀ヶ崖(さいががけ・浜松市中区)に陣を敷きました。

それを知った徳川軍は、三河物語によると
大久保七郎右衛門(忠世)さまがもう一度
撃って出ようと家康さまに進言した模様で
「こんなになよなよとしていては
ますます的な勢いは盛んとなる、
諸隊の鉄砲を集めたならば、私が夜襲をかけます」

しかし、さしもの三河軍団も疲れている、
集まったのは120〜130挺。
って、けっこう集まってる❓🤣
これをつるべ撃ちに武田軍に撃ち込んだ、
これは少しは影響あったようで、信玄さまは
「勝つには勝ったがなかなかの敵だった、
 これはという者たちをけっこう撃たれた、
 徳川家に取っては規律も乱れるような負け戦
 であろうに、これだけの急襲を仕掛けてくるとは
 手強い敵だ」
とおっしゃったと三河物語にあります。

さてこの犀ヶ崖の急襲のとき、
家康さまはまだ爆睡中だったのかどうかっ❓💦🤣

ちなみに山岡荘八先生の
徳川家康本全26巻❓やったかな❓には
この犀ヶ崖のつるべ撃ちのタマが
信玄さまに命中ということになってます
これフィクションですけど、知らんけど🤣💦


4 信玄さまさらに西へ進軍

その後の信玄さまの進軍です。
野田城(新城市)を陥としました。
野田城は少し前の武田軍の圧力に屈服し
図らずも武田サイドに落ちてしまった
長篠城のスグ近所です。
その後、信玄さまは長篠城に入ったという話も聞きます。

このように浜松や東三河の山間部はほとんど
信玄さまに押さえられてしまい、
徳川エリア的には、岡崎と浜松をつなぐ
拠点としては吉田城(豊橋市)が残るのみ
というかなりピンチな状態。

さすがにこのピンチな状態は家康さま認識していたのでしょう。
家康さまこの時点では東三河防衛のために吉田城に入る予定であることを
同盟を結んでいた上杉謙信さまへ送った書状の中に見て取れます。
いちおー周囲の国々になめられんように
今からやることを方々に伝えていかんとあかん
そんな状況やったんや思います💦

5 三方ヶ原・信玄公勝利の影響

日本史通説では、
15代室町将軍足利義昭さまがまとめ役になって
朝倉義景さま・浅井長政さま・大坂の本願寺と
信玄さまで、織田信長さまを
四方から取り囲む包囲網を形成し、
信長さまを討伐しようと企みをしました。
信玄公の遠江・東三河・東美濃侵攻はそれに従う
軍事行動だとされていました。

しかし最近の研究では、順序が逆で
信玄公の遠江・東三河・東美濃侵攻があまりにもすさまじいために
足利義昭さまが、織田信長さまこれは潰されると
信長さまを見限って、武田信玄さまと結んだ、という
説もあるとのこと。
こちらのほうがより真実に近いような気もしますね。
信玄公はスゴイ武将だ、というウワサよりも
破竹の勢いで西上する信玄さまという現実を
見せつけられたほうが、義昭さまは気持ちがグラつくかも
と思えませんか❓

いずれにせよ、義昭さまのこの信長さまに対する
挙兵行動が義昭さま・信長さまの関係に亀裂を入れて
1573年・元亀4年=天正元年の7月には、
義昭さまは信長さまによって京都を追われてしまいます。
また8月には越前朝倉氏が、9月には江北浅井氏が
信長さまによって殲滅されます。


6 信玄公発病

さて、野田城・長篠城に入ってらした信玄さま
野田城を落とした直後くらいに持病の吐血が悪化、
武田軍の西上がぴったり止まってしまいます。
そして1573年・元亀4年=天正元年4月には武田軍ははたから見ると
何の理由もなしに甲斐国への帰途につきます。
そして信玄さま4月12日にお亡くなりになりました。

信玄公の遺言は、自分が亡くなったことを
3年間は秘匿せよ、でした。
が、家康さま、理由不明のまま、国へと帰る
武田軍をみて
「これはアヤシイ、何かが起こっている、調べよ」
とおっしゃたのでしょうねぇ。

この信玄公の逝去が、義昭さまが京都を追われ
また、織田信長さまが浅井・朝倉両氏を撃ち果たす
キッカケになってます。


5月にはもう家康さま、信玄さまの逝去をご存知で
東三河・遠江・駿河の拠点を次々と奪還し始めました、
やるときはやるんやー😂

7 家康さまその後

結果、
15代将軍足利義昭さまは京都を追われ
室町幕府消滅。浅井氏・朝倉氏滅亡。
武田氏は勝頼さまが信玄さまの跡を継いだが
いったん甲斐に戻る、という状況。

織田信長さまはめでたく
信長さま向けに挙兵した勢力が
迫り来る様子からは脱出、
家康さまもとりあえずは
今日明日に遠江を取られることはなくなった、
と信長さま・家康さまとも国を立て直す
猶予はあることとなりました。

しかし遠江・三河では家康さまに不安を持ち
武田方になびく武将もいるわ、
この時点では武田氏の遠江・三河への
侵攻を許してしまっている状態だわ、
また信長さまからも「武田をやれ」と
はっぱをかけられる状態💦

いわゆる課題山積み状態は続くーーー😂😂😂

8 次回

本格的な対武田戦争へと向かう家康さま

武田氏滅亡させてしまったため評価の低い武田勝頼さま
たまたま運が悪かっただけで、決して愚将ではない❗️
むしろ武将としても政治家としてもやり手。
家康さまほうぼうで🆚武田戦争、苦戦します。

そんな苦戦の中、家康さまのお身内にも
謀反に近い動きがっ❓❗️

心配事の絶えない家康さまっ
だいじょーぶかっ


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